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ロスト・ソウルズ
監督:ヤヌス・カミンスキー
2001年6月10日(新宿武蔵野館)

 邪悪の排除は如何様に?



 君達はあらゆる現象を単純に理解しようとする。
 いいえ、実際単純なのよ。

 犯罪心理学者と教会関係者の対話、此処で言う「単純」とは、勿論、キリスト教的二元論(二元論は本来「異端」の発想ですが)のこと、何事も「善」と「悪」の二項対立に還元してしまう後者を前者が揶揄しているわけです。欧米(キリスト教文化圏)のホラー映画、特に『エクスソシスト』以後の一般に「オカルト映画」と呼ばれるジャンルがこの単純明快な二項対立を根本としているのは言うまでもないことで、つまり、大抵のオカルト映画は宗教的な、即ち全宇宙規模で絶対的に色分けされた「善/悪」あるいは「正/邪」の局地、代理戦争であると、澁澤龍彦の表現を借りればそういうことになります。そしてその「代理戦争」に於いては、大抵の場合、「悪」の側が人間の姿を借りて現われ、教会もしくは聖職者が「善」の代行者としてそれを排除するという構図が、もはやオカルト映画の「古典」とさえ呼ばれる『エクソシスト』や『オーメン』など正にそうです。最終的に如何にして「悪」が排除されるかは作品によって様々ですが、「悪魔祓い」等の儀式を基本としながらも、しかし、案外「アクション映画」と大差のないところもあって、例えば『エクソシスト』など、結局はカラス神父による「捨身の蛮行」が功を奏するわけですし、その続編である『エクソシスト2』に至っては、クライマックスはリチャード・バートンとリンダ・ブレアの激しい取っ組み合い、「善」と「悪」の二元論を「大衆娯楽」に還元しようとすれば、やはりどうしてもそうなってしまうのかも知れません。

 さて、「スーパー・ナチュラル・スリラー」という、それが悪質な和製英語なのか正式な輸入表現なのかは知る由もないのですが(「超自然スリラー」なら「スーパーナチュラル・スリラー」の方が正しいようにも思われますが)、何れにせよ、思わず赤面してしまうその恥ずかしい文言が謳われたこの映画も、要は件の単純な二項対立を根本とした在り来たりな「オカルト映画」であるに過ぎません。「日常」との距離感が模索された底の浅い「現実主義」の要請としてむしろ「サイコ・スリラー」が持て囃されている昨今の事情からすれば、此処に在るような「非科学性」はある種の「懐かしさ」すら覚えるもの、ただ、それでも今日的な「現実主義」の呪縛からは逃れられないようで、例えば、物語序盤の「悪魔祓い」の場面(の直接的な描写)が省略されているのなどその典型と言えるのですが、およそ非現実的な場面や描写は極力排除するよう試みられているようです。非現実的な物語から非現実的な描写を排除して「現実主義」に阿るなど余り潔い態度とは思えないのですが、それは譲るにしても、では、あくまでも現実的な場面、描写の集積としてのこの非現実的な物語が果たして上首尾に機能しているのかと言えば、必ずしもそうとは言えません。これは冒頭にその対話を引用した両者の対峙の物語であり、無神論者の前者が後者に取り込まれていく(最後には自らの命を差し出そうさえします)過程を描いたものでもあるのですが、観客の視線を逃れるべく排除されたものは当然ながらこの犯罪心理学者の視線に晒されることもないわけで(「現実主義」を標榜すれば当然要求される「誠実さ」です)、それにも関わらず前者が見事な「転向」を果たしてしまうのは、少なくともこの映画に於いては、とても「現実的」な動作とは言えないのです。キリストでも麻原でも構わないのですが「オレの目の前で奇跡を起こしてみろ、出来たら信じてやるゾ」という話と理屈は同じで、科学信仰の篤い通俗な人間にとっては目に映るものこそが現実であり、科学信仰の牙城を手っ取り早く崩すつもりならば、やはり何かを「見せてしまう」のが最善の策、勿論、この映画はそんな「手軽さ」を拒絶しているとも言えるのですが、しかし、残念ながら、高邁な意志がその代価として要求するものにこの映画が十分に応えられているとはとても言えないのです。その事実を端的に示しているのがこの映画の結論、此処に於ける「悪」は如何にして排除されるのか、『エクソシスト』や『オーメン』に比べても圧倒的に少ないその「労働量」は、犯罪心理学者が「転向」に要した「労働量」に丁度比例しているのです。

 彩度を落として粒子を粗くしたフィルム、物々しいスローモーション、何者かの視線を予感させる不自然な仰角あるいは俯角、そして逆光の多用と、此処に於いてはCG合成の「化け物」を登場させる代わりに比較的オーソドックスな映像技法を駆使して其処に「非現実」を予感させることが試みられており、そのこと自体は好感が持てるのですが、しかし、そういった映像技法の活用自体が目的化してしまっている感も、結局、それもやはり払い切れない代価の付けのような気がします。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、観客は疎らでした。その疎らな観客がエンドクレジットが流れ切る前に全員(私を除いて)席を立ってしまいましたから、彼らがこの映画に与えた評価は推して知るべし、と。


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