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ギフト
監督:サム・ライミ
2001年6月17日(新宿東急)

 観客が共有するもの



 リュック・ベッソンの『ジャンヌ・ダルク』が些か「不誠実」なのは、ジャンヌの奇跡体験(「神の御告げ」を連想させる)を観客に予め共有させておきながら、物語後半では作家の意図としてそれに対して懐疑的な態度を示している故、ならばジャンヌはおろか観客までもがスクリーンに目撃したあのCG合成の「奇跡」は一体何だったのか、もし仮にあれが単なる白昼夢に過ぎないのならば、そんな奇妙なものを観客に共有させておきながら同時にまた「普通の女の子」を押し付けるなど、如何にも御都合主義的な「演出」と言わざるを得ません。ジャック・リベットの『ジャンヌ』では、その奇跡体験はジャンヌの台詞を借りて説明されるに止まり、つまり、それが「現実」なのか、あるいは単なる「妄想」に過ぎないのか、作家の態度はあくまでも留保されており、また、観客にも判断の自由が与えられています。此処で言う「誠実さ」とは正にこのこと、何であれ観客に「見せる」即ち観客に体験を「共有させる」ものにはそれなりの説明があって然り、それが困難ならば直接的な表現は避けて間接的な表現を、観客に此見よがしに示しておきながら同時にそれを否定するなど、詐欺師の仕業と言われても仕方ありません。

 スクリーンと対座する観客がその「特権」を行使して此処に共有するのは、勿論、この主人公が持つ特殊な能力、彼女が其処に目撃したものを、スクリーンの中に在る誰一人もが共有できないにも関わらず、観客はそれを共有し、従って、他の誰よりも彼女を「信じる」ことができる立場を得ることになります。『ロスト・ソウルズ』に関する文章でも書いたのですが、この類の「非科学的」な現象は何よりも「見る」ことこそがそれを信ずるための近道であり、当たり前のようにそれを「見る」ことができてしまう観客とは、好む好まざるとに関わらず、主人公の有するその「非科学性」を全肯定すべくの立場に、またスクリーンの中でそれを否定する人達(彼女の体験を共有することができない故に)と比べて明らかに優位な立場にあるとも言えます。この立場は「感情移入」や「同化」ということで言えば分かり易くて、此処に目撃される幾つかの対立(例えば、裁判の場面に於ける主人公と弁護士のような)に於いて、大抵の観客が「肩入れ」するのは主人公の方、観客こそが彼女の一番の「良き理解者」なのですからそれも当然のことなのです。何故観客が主人公の「良き理解者」であり得るのかは既述の通り、肝要なのは、観客に何かが「見えて」いるのではなく、誰かがそれを「見せて」いる、あるいは(主人公の)体験を「共有させて」いるということ、つまり、此処に捏造されるのは主人公の「良き理解者」の視線であり、この物語はその視線を介することによって漸く成立するものであるということです。勿論、そのような「操作」は娯楽映画の常套、今さら指摘するまでもないことなのですが、冒頭に記したリュック・ベッソンの蹉跌は、つまり、娯楽映画の手法を借りながら、其処に史実に対する「客観性」をも持ち込もうとしたことに、些か欲張り過ぎたということなのかも知れません。何れにせよ、映画に於いては観客に「何を見せて何を見せないか」という選択が重要な意味を持つわけで、この映画に於ける優れた「娯楽性」は、つまり、何の躊躇いもなく観客に多くを「見せて」いることに、そうやって「思考停止」を促すことが娯楽映画の基本です。

 序でに言えば、主人公を巡る「人間ドラマ」にしても、やはり観客が彼女の体験を共有しているからこそ其処に「感情移入」の余地が生まれるわけで、彼女に感じてしまう齟齬や「もどかしさ」など、正に「理解者」である故の特権的な感情と言えます。

 例えば、カードを並べる場面にでも呼応してそれが現われれば随分と分かり易くなるのですが、此処に於ける妄想(予知夢)の場面は、その出現のタイミングに一定の誤差があり、また、映像表現としても「現実」との段差が少ない分、幾らか分かり難くなっています。勿論、その「不親切」は確信犯的なもので、「現実」との境界を予め曖昧にすることによって観客を油断させ、そして驚かせることに、此処に於ける「現実/非現実」は映像表現の差異ではなく、物語的現実との「距離」によって、要は「文脈」を逸脱した映像あるいは状況が即ち「非現実」であると、そんなふうに区別されています。妄想のシークエンスで観客がそれを正しく「妄想」と理解するのは、其処に「文脈」との明らかな矛盾を発見した時点に於いて(例えば、既に死んだはずの人間が生きていたり)、映像表現自体は「現実」のそれと何ら区別がないのですから、其処に決定的な矛盾を発見するまで、観客は言わば「騙されて」しまうわけです。

 この福永武彦のような「不親切」は、映像表現のステレオタイプを否定するという意味で、確かに「現実的」な方法であり、娯楽映画というよりむしろ「芸術性」を重んじる類の映画に多く見られるものと認識していたのですが、最近では娯楽映画にそれを目撃することも屡々、此処に於けるそれは決して場違いな「現実性」を企図したものではなく、また、シークエンスの終わりには誰の目にもそれが「現実」とは区別されたものであることが明らかになるわけですから、些か紛わしくはあっても(否、此処に於いてはその「紛らわしさ」こそが肝心なのでしょうが)物語を理解する上で何らの障害となることもないのですが、しかし、特に娯楽映画に用いられるそれは、所詮は観客を「騙す」という「悪ふざけ」の一種に過ぎませんし、個人的には余り好きにはなれません。例えば、クローネンバーグの『デッド・ゾーン』のそれのような、「明快さ」を忌避する理由など何処にもありませんし、娯楽映画ならそれで十分ではないでしょうか?

 公開二日目の日曜日の午後、客席は漸く半分が埋まっていた程度でした。先週の『ロスト・ソウルズ』もそうですが、この類の映画が立て続けに公開になるのはやはり時期的なものでしょうか? 尤も、ホラー映画で「納涼」という発想がアメリカにあるのかどうかは知りませんが。


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