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A.I.
監督:スティーブン・スピルバーグ
2001年6月23日(新宿ピカデリー1)

 錯覚を促す装置



 そう遠くない将来、少なくとも外見的には生身の人間と殆ど違いのないロボットが発明されるようになるのかも知れません。ただ、それはあくまでも科学技術の「可能性」の問題であって、「必要は発明の母である」という観点から、では、ロボットを限りなく人間の姿に近づけなくてはならない「必要」が何処にあるのかと言えば、これは意見の分かれるところだと思いますが、個人的には、差し当たってはそんな必要などないと、従って人間型のロボットが世の中に溢れるような状況は、如何に科学技術が進歩しようとも、訪れないのではないかと予想しています。確かに、姿形が人間に近ければ、それだけ親近感も湧くのだと思うのですが、しかし、所詮は「道具」に過ぎない存在ですし、それはこの映画の中でも言及されていることですが、人類の差別的感情が人類と外見的に何ら区別のない「非=人類」の存在を果たして許すのかどうか、「違和感」を排除するための代償は想像以上にも大きいような気がします。

 それはともかくとして、「映画」の話で言えば、生身の人間と外見的に何ら見分けの付かないロボットなど実はまるで「必要」がなくて、それは欧米のライフスタイルを忠実に模倣した典型的な「日本人」がハリウッドで必要とされず、21世紀の現在に於いても相変わらず「ニンジャ」か「サムライ」、あるいは「ゲイシャ」でしかないのと理屈は同じで、ロボットはあくまでも「ロボット的」な外見でスクリーンに現われなくては、少なくとも観客の興味を惹く存在とはなり得ません。それは映像技術の最先端を行くのであろうこの映画を観ても分かることで、人間型のロボットが大量生産されているはずの物語状況であるにも関わらず、スクリーンに映し出されるそれらは意図的にメカニカルな部分が剥き出しにされた不具揃いで、さながらロボット版『フリークス』といった風情、要はそんな状況を捏造してまでもロボットを「ロボット的」に捉えようと、技術の進歩がロボットを限りなく人間に近づけようとする一方、もう一つ別の技術は、むしろ人間から遠ざけようと、人間がロボットに期待するもの、此処に現われる矛盾こそが「現実の未来」を予見していると言えるのかも知れません。

 此処に在るのは「愛されたい」とひたすらに願望する主体の物語であり、例えば、この映画の宣伝文句にあるような「人間はロボットに愛を返すことができるのか?」というような類の問題提起など何処にも存在してはいません。この映画を、取り分け「愛」に関する主題に言及して「中途半端」と評する向きもあるようですが、しかし、そもそもが存在すらしていない設問には答えようがなく、否、この物語に於いては早々にも「愛を返すことなど出来ない」と結論付け、むしろ「それ故に…」に続く「第二案」にその大半が費やされていると言った方が正しいのかも知れません。あるとすれば、人間を「創造主」に見立てた何とも荒唐無稽な「責任論」なのですが、しかし、何れにしても、この物語はあくまでも「愛されたい」と願望する「非現実」な存在の視点を借りた「メルヘン」なのであり、そのスタンスの限りに於いて、此処に示されるのは「問い掛け」ではなく「教訓」の類、もし何かを、例えば「人間はロボットに愛を返すことが出来るのか?」という問題提起を試みるつもりなら(実際、物語の序盤がそうであったように)視点を人間の側にこそ置くべき、そうしていない(そのつもりもない)時点であらゆる設問は無効に、故に然して有り難くもない「教訓」が示唆されるに止まるのですが、しかし、それこそが「メルヘン」たる所以、この作品に限らず、スピルバーグは「問題提起」などという野暮を映画に持ち込んだりはしないのです。

 提起されてもいない問題に答えてみれば、例えば、ペットに対する愛情、大人になっても捨てられないヌイグルミ、自動車やパソコンなどの「道具」に対する実質を越えた愛着等々、確かに、それらを人間に対する「愛」と同列に並べるわけにはいかないのかも知れませんが、しかし、その延長線上にあるとは言い得ても、まるで別物であるとは言い切れないはずです。此処に要求されるのが極めて高次な、例えば「無償の愛」とでも表現すべきものならば、それは人間同士の間でさえ相当の難題となるはず、しかも、この場合、ロボットの側が差し出すのはあくまでも「インプットされた愛」なのですから、人間の側が返すべきもそれに見合う程度で十分、否、そもそもロボットを「自分の子供のように」愛さなくてはならない理由が一体何処にあるのか、「創造主としての責任」という発想にしても、不遜というより滑稽です。また、我々が「非現実」に対して抱く愛情で忘れてはならないのが、映画等の「虚構」に対するそれ、ロバート・ゼメキスの『キャスト・アウェイ』を観た迂闊な人が「バレーボール」に感情移入してしまったとしても、しかし、それを嗤うことなどできません。これもやはり人間が「非現実」を愛することが出来てしまう好例、勿論、この場合も、やはり人間に対するそれと同等に扱うべきではないのでしょうが、しかし、「映画」がそのような作用、即ち観客に何らかの「錯覚」を促す装置であるとするならば、ロボットの外見をより人間に近づけようとする意志も、結局はそれに同じく、人間を「錯覚させる」ためのもの、実際、この映画を観た人の多くは最も「ロボット的」でない存在(ロボット)に感情移入するはず、それは二重の「必要」から生まれた二重の「錯覚」に他なりません。近未来の科学技術がロボットの外見を人間の姿形に近づける「必要」があるとすれば正にそれ、それは内面の「類似性」を実現する「インプットされた愛」にしても同様、やはり、所詮は「錯覚=非現実」の装置に過ぎないのです。退屈な問題提起などなくて正解、それは「映画」の自己否定にさえ繋がりかねません。

 監督の「セルフパロディー」と思しき場面も幾つか、物語の始めの方に出てくる「薄暗い室内に逆光が差し込むカット」に『構想の死角』の一場面を想起したのですが、それはおそらく私の考え過ぎなのでしょう。

 先行オールナイトの第三回目、午前0時過ぎからの回を観たのですが、1500席の劇場が殆ど満席に近い状況だったのにはさすがに驚きました。同じ劇場で同じ時間帯にやはり先行オールナイトを観た『スペース・カウボーイ』が精々100人弱だったことに思い当たればその人気の高さが知れるというもの、しかも、先行オールナイトの上映は新宿だけでも四館、他の劇場もおそらくは同様の状況だったに違いありませんから、これはもはや「異常事態」の類です。数日後の新聞報道によると、案の定、その日の売上は先行オールナイト上映の歴代の売上記録を大幅に更新するものだったとか(これまでの最高は『エピソード1』のそれ)、驚くのも無理はありません。そう言えば、夜中だというのに観客の大半は若い女性、お目当てはジュード・ロウなのか、あるいは所謂「ショタコン」というヤツなのか、そのヘンの事情はよく分かりません。


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