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バロウズの妻
監督:ゲイリー・ウォルコウ
2001年6月24日(ユーロスペース2)

 割れないグラス



 これは実話である。これ以上の真実はない。

 実在の人物、事件を題材とした映画の常套句とは言え、映画の始まりと同時に先ず宣言されるこの文言にはさすがに興醒めしました。「映画」と「真実」は相容れない、もし仮に「映画」が何らかの「真実」を切り取り得るとするならば、それはフィルムが其処に像を焼き付けている瞬間の、例えば、コートニー・ラヴが「バロウズの妻」を演じているという「真実」であり、半世紀も昔にメキシコで起こったのかもしれない「真実」ではないと、否、今さらそんな難癖は付けないにしても、此処に於ける「真実」の濫用は、その対象が「バロウズ」であるだけに、如何にも浅はかな印象を受けてしまいます。さらに言えば、そもそも「映画」に「真実」など期待されているのか? 何であれ「真実」など所詮は「情報」の類、もし仮に「フラフラと酩酊のテイ、『ウイリアム・テルごっこ』でバロウズの手元が狂った」というそれが「真実」だとするならば、その「真実」とは、今私が記した36個の文字(鍵括弧、読点等を含む)が意味するそれ以上のものでなど決してあり得ず、つまり、その「情報」の伝達こそがこの映画の第一義であるのならば、私が此処に並べた「36個の文字」をして既にこの映画の価値は霧散、高い入場料と二時間の暗闇に得るものなどもはや何もありません。序でに、百歩譲ってその「情報」の質に着目するにしても、「『これが真実だったのか!』と驚く人は少なくないはずである」(松浦弥太郎)という見識が単なる「間抜け」にしか思えない程度のもの、もし仮にこの映画が何よりも其処に提供さている「情報」の価値を謳うものなら、それを「詐欺行為」と言わずして、です。勿論、私はこの映画の本来的な価値を問うているのはなく、此処までに「もし仮に」を既に三度も使用しているように、此処にあるすべてはあくまでも仮定の話、そして、私が仮定する「何か」の可能性を示唆しているのが冒頭に引用した「常套句」であると、そういう話なのです。バロウズがジェーンに向けて発砲する、狙ったはずのグラスが無傷のまま床に転がる、それはつまり…、と、そうやってショットの隙間に「言語」を探るのが「映画」、此処で言う「真実」の所在もやはり其処に同様なのです。

 この映画では焦点の浅いレンズによる撮影が多用されています。スクリーンの一部にのみ焦点が合って、それ以外はぼやけるというのがその効果で、何かを特に強調したいような場合に主に用いられる手法です。ちなみに、その反対、深いレンズによるそれは『市民ケーン』などで知られる「パン・フォーカス」という手法で、この場合はスクリーンの殆どすべてに焦点を合わせることによってすべてを鮮明に、一般に映像の「奥行き」を生むとも言われています。此処に多用される「シャロウ・フォーカス」が些か特異なのは、殆どすべての場面でそれが用いられ、何らかの「必要」に応じたものでもなさそうであること、大抵の場合、人物に焦点が合わせられているので、それらの人物が背景から浮き出しているように見えます。中には(スクリーン上の)どれほども重要とは思えない部分に焦点が合っている不可解なショットもあって、単なる「撮影ミス」ではないのかとも、顔のクロースアップでも、鼻の頭に焦点が合っていれば耳朶がぼやけているという極端さ、大島渚の『御法度』という映画もやはり同様に「シャロウ・フォーカス」が多用されているのですが、あの映画の場合は(演技を重視したとはとても思えない配役からしても)差し当たって「顔」(「表情」ではなく)に顕れる個性を捉えるという意図を読むことができたのですが、この映画の場合はさて、よく分からないというのが正直なところです。スクリーンに浮き立つ人物群に対して、屋内外を問わずその不鮮明さの故にまるで「書割」のようにも見えてしまう背景は、其処で「真実」が語られているとは到底思えない嘘臭さ、紙芝居でも観ているような感じです。あるいはカメラの視覚を人間の視覚に近づけるという「リアリスム」の一種なのか、仮にそうだとしても、例えば、セドリック・カーンが試みた「パン・フォーカス」の「異常さ」と比べてしまうと、其処に際立つのはその「凡庸さ」のみ、メキシコの気候、風土を表現している? 否、やはり「よく分からない」と繰り返すに止めておきましょう。

 キーファー・サザーランドの「声」がバロウズのそれにそっくりでした。

 公開二日目の日曜日の午後、狭い「ユーロスペース」が半分くらい、妥当なところではないでしょうか。少し前に、やはり渋谷でレイトショー公開されていた『ビートニク』に引き続いての「ビートもの」、当時「ビート」と呼ばれた一連の文学運動は、形を変えて現在も間違いなく「続いて」いますから、「再評価」という表現には多少違和感を覚えるのですが、立て続けに関連映画が上映されるというのは、やはり何処かで「再評価」が為されているということなのかも知れません。さて、この機運に乗じてバロウズの著作物を手に取る若者は一体どの程度いるものなのでしょう?
 尚、本文中で触れたバロウズの「声」を確認するには、『ビートニク』『ポール・ボウルズの告白』を観るか、あるいはYMOの「Be a Superman」という曲を。


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