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テイラー・オブ・パナマ
監督:ジョン・ブアマン
2001年6月30日(新宿武蔵野館)

 愛国者よさらば



 所謂「冷戦構造の崩壊」は現実の世界のみならず、虚構の世界、例えば「映画」に於いてすら「国家スパイ」からその居場所を奪ってしまいました。イアン・フレミングの原作が疾うに尽きてしまった「007シリーズ」にしても、いまだに人気シリーズとしての地位を確保してはいるものの、その物語内容は旧来のそれと比べてかなり歪んだものに、それは現実と虚構が中途半端に歩調を合わせようとする故の歪みであり、その歪みはジェームス・ボンドが、例えば、防衛費削減の煽りを受けてMI−6をリストラ、民間の然るべき団体に転職するとか、そんな事態でも起こらない限り(あるいは冷戦構造が復活するとか)決して解消されることはなく、今後、現実の世の中がより「好ましい」方向に進んで行くのであれば、その歪みはますます激しくなっていくに違いありません。対照的にブライアン・デ・パルマによって映画化された、『スパイ大作戦』の名前で知られるテレビシリーズのそれは、冷戦構造の崩壊とともにやはり「崩壊」してしまった国家スパイのアイデンティティーを正直に告白することによって、少なくとも「007シリーズ」に見受けられるような「歪み」からは解放されています。もはや時代遅れとなった自身の存在に懊悩した揚げ句「二重スパイ」に転落してしまった「フェルプス君」は、ある意味、非常に現実的な存在、何一つを疑うことなくいまだに「殺しのライセンス」を振り翳すボンド中佐の方がむしろ異常と言えるのかも知れません。

 何れにしても、ボンド中佐と「フェルプス君」のそれぞれの行動に顕れた資質の差違はその「愛国心」に、ボンド中佐も勿論そうですが、「国家スパイ」などという職業にあるものは基本的に強烈な愛国者であり、それもやはり既述の「歪み」の一つと指摘できるのですが、最近のシリーズでは彼の愛国者としての自我が故意に隠蔽されているフシがあって、もし仮に、彼の「激しいアクション」を支えるものが、例えば「義侠心」などに摩り替えられてしまってはもうお終い、そうならないギリギリのところで踏み止まっているのが「007シリーズ」の現状と言えます。兎も角、何であれ「情報」がカネになるのがこの世の中、そして、その情報、しかも国家レベルの高次なそれを扱うのが他でもない「国家スパイ」の役割、山っ気の多い人間ならそれに然るべき値段を付けて私腹を肥やすべく商売を目論んでも何の不思議もないのですが、しかし、それをただ右から左へ、彼らの雇用主である「国家」へと単に情報を横流しするに止まらせるのこそが彼らの「愛国心」なのであり、そして、その「愛国心」にそれなりの実体を伴わせていたのが「冷戦構造」という世の中の情勢なら、その崩壊が「情報の流通」と滞らせてしまうというのも十分に頷ける事態、此処に於いて、他でもないピアーズ・ブロズナンが演じてみせる堕落した「国家スパイ」にしても、やはりそんな世の中の「道理」に適った、言わば至極真当な存在なのであり、現実と虚構の狭間でその「道理」に抗うが故に「歪み」を露呈せざるを得ないジェームス・ボンドとは好対照、その意味に於いて、実に見事な「パロディー」であると言えます。

 この映画に於ける(映像による)物語状況の「説明」は至って明快、例えば、何らかの台詞に連動して、それを説明する映像がカットバックされるという、要は、先ずは言語で示されたそれを即座に映像が補完するわけです。そのカットバックにしても、スクリーンに在る誰かの「意識」によって回想もしくは連想されるという面倒な体裁をとるのではなく、あくまでも「説明」として、つまりは「物語」の外側から強引にカットを紛れ込ませるという、否、実に「映画的」です。それは台詞と連動するばかりではなく、例えば、顔に酷い火傷の痕がある女性のクロースアップがあったかと思うと、即座にその火傷の理由を説明するシークエンスがそれに続くという、観客が「説明してくれ」と言う暇さえありません。これが、娯楽映画の常套として、物語状況の理解を容易にしているのは言うまでもないことなのですが、それよりも何よりも、私としては、やはり何の躊躇いもなく「物語」をその外側から支配してしまうというこの映画の「力学」に得も言われぬ魅力を感じてしまいます。「映画」は「物語」の外側に在る、表現は余り適当ではないのですが、そんな当たり前の事実を、この映画の、一見粗野にも見えてしまう手法が実に分かり易く示してくれているのではないでしょうか。

 足がないのは幽霊ばかりではない、否、ピアーズ・ブロズナンを始めとしたこの映画の登場人物には「足」がないのではなかろうかと、そんなことを疑ってしまうくらい「バストショット以上」がこの映画の殆どを、別に「足」など映さなくてもスクリーンから外れた部分にそれがあることくらい子供でも知っているとは言え、しかし、此処まで徹底して省かれてしまうと、どうしても幽霊か「パペット劇」に見えてしまうもの、既述のカットバック等々、映画的な、ショットの連鎖としての「リズム感」はそんなに悪くないこの映画が、それでも何処か躍動感に乏しいのは、やはり「地に足が着いていない」からに違いありません。

 公開初日の土曜日の午後、案の定、観客の入りは疎らで、初日の割には全体の半分も埋まっていませんでした。私の言う「案の定」の根拠とは、勿論、スピルバーグの話題作の初日と重なっているという最悪の環境のこと、その疎らな観客の大半が何故か高齢者だったのも、若者の動向を反映してのことなのかも知れません。


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