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クレーヴの奥方
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
2001年7月1日(銀座テアトルシネマ)

 視線を捉える視線



 象徴的なのは主人公とその夫、友人夫妻の4人でテレビを見る場面、固定されたカメラはテレビを見る4人の姿を正面から捉え、その背後から単なる「箱」として捉えられるに止まるテレビはその音声のみを、観客が其処に目撃するのはテレビに向けられた4人それぞれの「視線」とその内容(観客はそれを音声によって理解します)に呼応した彼らの発言です。この場合、相手が「テレビ」ですから其処に「視線」や「言葉」の交換があり得ないのは言うまでもないことなのですが、しかし、此処に於いては、互いに視線を持ち得るもの、即ち人間同士の間にもその関係が応用されているのです。「見る/見られる」の関係は絶えず一方的で、また、むしろ「独白」に近い言葉によるそれも同様、観客は此処に絶望的な「断絶」を発見することになります。その「断絶」の(物語的な)因が主人公の古めかしい倫理観にあるのは言うまでもないこと、此処に於いては、即ち、ある種の倫理観に裏付けられた感情あるいは行動の「抑制」が、「視線」あるいは「言葉」の交換を否定する、それら自体をスクリーンから排除してしまうことによって保たれていると、それは、テレビが映す遠い世界の出来事が、それを目撃する人間との間にあくまでも疑似的な「関係」をしか生み出し得ないのと同様に、倫理の一線を越えた「関係」を拒絶することになります。

 分かり易いのはペドロ・アブルニョーザが終始色の濃い「サングラス」を掛けているということ、視線の不在、少なくともそれを排除しようと試みる(あからさまな)意志の存在は明らかです。あるいは、聴衆の前で演奏するアブルニョーザと観客の一人として彼に視線を送るキアラ・マストロヤンニとの関係が、丁度「テレビ」のそれに同じ、彼女の視線を捉えるショットが何かを物語ることはあっても、その立場が逆転することはない、言うなれば、「物語的」に彼女がそれを拒絶するのではなく「映画的」に予め排除されていると、その意味に於いて、この映画には「メロドラマ」を予感させるものなど何一つなくて、其処には予め分けられた二つの世界(ロック/クラシック等々)と、その一方から送られるの視線、あるいは、その視線が予感させる感情が存在するのみ、その感情を抑制するのは「物語」ではなく「映画」なのです。そもそも、彼女の視線の先に在るのがアプルニョーザという特定の個人なのかどうかも疑わしく、例えば、彼女が二階の窓から「赤いスポーツカー」を目撃する場面、その対象は明らかに記号化されています。黒いサングラスに「目線」を連想するまでもなく、視線の不在はまた「匿名性」をも、彼女はその視線の先に、ただ視線を送ることのみが許される、やはり映画的に分けられた「もう一つ」を見ているに過ぎないのかも知れません。

 では、それ自体が視線である「映画」が此処に於いて如何なる態度を示しているのかと言えば、およそ禁欲的に、ただ「視線を捉える」ことにのみ徹していると、その態度をして「禁欲的」とするのは、他でもない「視線の映画」に於いて、その視線をスクリーンに在る誰かに安易に貸与えることがない、つまり、あくまでもキアラ・マストロヤンニの視線をもう一つ別の視線として捉えるに止まり、決して彼女の視線それ自体になろうとはしていない故、否、むしろ「視線の映画」であるからこその「自制」と解すべきなのかも知れません。コンサートの場面では(それを見る)キアラ・マストロヤンニの表情(視線)をひたすらに捉え続け、観客席に彼女のいない別のコンサートの場面では、如何にも退屈な「フィックス/ロング」を用いて、それが観客席の誰かの視線などではなく、あくまでも「映画」の視線であることを示しています。キアラ・マストロヤンニに想いを寄せる若い男が事故に遭う場面、カメラは事故の瞬間を追い掛けるでもなく、固定されたショットはただその不在を捉え続けるのみ、此処で言う「不在」とはスクリーン右端に消えていったその若い男の不在であると同時に、そのほんの少し前にスクリーン左端に消えていったキアラ・マストロヤンニとその視線の不在でも、否、カメラが其処に積極的に捉え続けているのはむしろ「視線の不在」の方、もし仮にその場面にキアラ・マストロヤンニがいたとしたならば、カメラは、やはり事故になど目もくれず、ひたすらに彼女の視線を捉え続けていたに違いありません。視線の不在、彼女がそれを「見ていない」という事実が其処に切り取られているのです。彼女の「不在」というこの物語の結論は、同時に「映画」が其処に捉えるべきを失うという意味も、それは単に物理的な意味に於ける(視線の)不在ではなく、彼女が「見る」ことを止めてしまった故の不在、言わば「消滅」なのです。彼女の不在、即ち「彼女を見る」ことができなくなってしまった故に「物語」が終わり、視線の不在、即ち「彼女が見る」ことを止めてしまった故に「映画」が終わるのです。

 この映画の「視線」を巡ってはその他にも色々、修道院の絵画や街角の彫像の視線、修道院の鐘の音を合図に視線を虚空に投げる場面(主体を替えて反復されます)等々、興味は尽きません。

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、「現役最年長監督の(日本公開)最新作品!」と大々的に謳っているわけでもありませんし、半分にも足りないくらいの入りでした。それにしても、この映画を撮った当時の監督の年齢は91歳、「矍鑠たる」とは正にこのことだと思うのですが、同時に90歳を越えてもいまだ「現役」であり得る映画監督という職業の不可思議、与えられた役割の「曖昧さ」にも思いが至ります。


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