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映画評=論(1)
2001年7月13日(雑記)

 数字列の誘惑



 私のこの無愛想な映画評サイト、日々それなりのアクセスがあるのですが、その大半が検索エンジン(の検索結果、主に作品名による検索)からの来訪者です。それもこれも幾つかの検索サイトの「ロボット」が熱心に巡回してくれているお陰、非常に感謝しているのですが、所謂「アクセス解析」の類でそのような状況を容易に把握できるにしても、しかし実際、私の書いた文章が「読まれている」のかどうかまでは分からないわけで、場合によっては、当該ファイルにアクセスした数秒後にもブラウザの「戻る」ボタンに手が伸びていることもあり得る、否、むしろそういう場合の方が余程多いのではないかと訝っています。別に悲観的になっているわけでもないのですが、私は、自分が書く文章がどれほども人の期待に応え得るようなものではないと、そんな自覚を常々持ち合わせており、今現在のアクセス数は半ば「詐欺」のようなものであるとさえ思っています。実際「よく分からない」とか「何が愉しいのか?」という意見も屡々、それも致し方ないと思っているのですが、ただ、私にもそれなりの(一貫しているとまでは言い切れないのですが)「姿勢」があって、その結果が文章に顕れている、むしろ、結果としてそうなっているに過ぎないというのが本当のところで、要は、その「姿勢」に言及してみようというのがこの文章の趣旨なのです。否、別に「映画評(一般)斯くあるべし」と大上段に構えてみても良かったのですが、(私の性格上)彼方此方に予防線を張りまくってみたり、矢鱈と弱腰の見苦しい文章になってしまうことを回避する意味で、あくまでも私個人の「姿勢」の話とすることにしました。

 思うに、多くの映画評の誤謬は「映画評」と「物語評」を混同していることに、確かに映画は「映像の連鎖」を媒介として其処に「物語」を発見するものであることに間違いはないのですが、しかし、「物語」とはあくまでも映画を観た人間それぞれが「読む」ものであって、決して何らか目に見えるものとして予め其処(スクリーン)に「在る」ものではありません。例えば、同じ映画を観た百人にその物語を問うてみれば、その答えは百通りのはず、勿論、其処で取り出されたそれぞれの「言語」を然るべき篩に掛けてみれば其処に唯一つの「言語の連鎖」即ち「物語」を発見することになるのですが、しかし、肝要なのは、「物語」というものの正体が、あくまでも何らかの「映像の連鎖」を目撃した人間が、それにその人間が予め有する然るべき「言語」を当てたに過ぎないものであるということ、従って、それは「物語」から派生する「解釈論」と同様に、所詮はそれを観た個人に帰属するに過ぎないものであり、何故ならば、スクリーンに明滅する光を眺めている限りに於いて「物語=言語」などそもそも何処にも存在しておらず、それはあくまでもその光を体験した人間の頭の中に「生まれる」ものに他ならないからです。

 と、早々にも話が脱線した上に些か極端に走り過ぎてしまったようなので段を落として軌道修正、勿論、それが映画を体験したそれぞれ「個人」に帰属するものに過ぎないのであれ、「物語」が映画の一部分であるのは疑いようのない事実なのですから、それに言及することが悪かろうはずもないのですが、しかし、此処で問題としているのは、「映画を観た」という(映画を論ずる)大前提がありながらも、「物語」や其処から派生する「解釈論」という、実際には「観て」もいないものをその映画のすべてであるかのように論じてしまうこと、先ず以て「言語」でしかないものを相変わらず「言語」で論じるという行為が如何にも「貧しい」ということです。2時間近くも映画館の暗闇に身を沈めて一体何を「観た」のか、何を目撃した結果としてその「言語」が生まれたのか、それを等閑にすべきではないのです。既に「言語化」されてしまった何かをさらに別の言語に置き換えるのではなく、「言語化」される以前に一つの「状態」としてスクリーンに間違いなく在った(在る)何かを切り取って、例えば、それが「言語」に如何に働きかけているのか、あるいは如何にして「物語」は発見されるのか等々、「映画を観た」と宣言する以上、先ず以てそれらに言及することこそが、何よりも「誠実」な態度なのではないかと、私はそんなふうに思っているわけです。

 さて、斯様にスクリーンに目撃された何かを正しく指摘する限りに於いては、実は映画も映画評も「絶対」であり得ます(勿論、「観る」という動作にしても所詮は間接的なものに過ぎませんから、其処に「絶対」として在るはずの「状態」を確認することなど誰にとっても不可能、従って、その存在はあくまでも「仮定される」に止まります)。「映画の価値など所詮は相対的」というのが世間の通り相場、「絶対的に優れた映画」など存在しないことになっているのですが、そのような発想はしかし如何にも敗北主義的、そんな発想を前提とした腰の引けた(あるいは開き直った)映画評に至っては…、です。別に難しい話でもなくて、差し当たって「優劣」の問題を後回しにしてしまえば、要は「其処に目撃したもの」即ち「スクリーンに在ったもの」を単に指摘するだけなのですから、其処に見解の相違はあり得ない、と言うより、映画というのは舞台演劇とは違って一つのフィルムが複製、反復されているに過ぎないのですから、誰がいつ何処で観たにせよ、それが常に同じ「状態」を示すのは至極当たり前のこと、私の言う「絶対」とはただそれだけのことなのです。ただ、其処に目撃されたもの、映画の「状態」を正しく指摘すると言ってはみるものの、しかし、それは取りも直さず「言語化」の作業であって、従って、それが「言語」として現れた途端に「絶対」どころか、それを書いた「個人」に帰属する有象無象へと堕してしまうのは残念ながら認めざるを得ないところ、その意味に於いて、あらゆる評論活動など予め敗北主義的と、あるいは、其処に「言語」ではない何かを「言語」として再現する作業の限界を発見せざるを得ないと、「無意味の誘惑」とでも呼ぶべきか、要求されるのはそれを遣り過ごす「無神経さ」なのかも知れません。
 何れにせよ、「絶対」が仮定される「何か」を平然と無視して、他でもない、其処に存在しない故に「相対的」でしかあり得ないものを論っては「好き嫌いの問題です」と勝手に片付けてしまう「マッチポンプ」など余りにも莫迦げているわけで、さらに言えば、そのような言説の何処を切り取ってみても実は「映画」など見つかったりはせず、見つかるのは有象無象の「私」ばかりという、否、余りにも退屈です。

 では、少し前に「後回し」にしてしまった「優劣」は如何にして判断されるのか、「絶対」として在るはずの「状態」を正しく指摘できれば、その「状態」の「意味=言語」への働きかけ、その「作用」の在り方を発見し得るはず、つまり、あくまでも「作用」の結果として個々人の頭の中に現れるに過ぎない「意味=言語」の優劣を問うのではなく、その「作用」自体の優劣を問う限りに於いては、それもやはり「絶対」であり得ると、「パターン化」などと言ってしまうと如何にも味気ないのですが、しかし、そうし得るものが存在していても何ら不思議ではありません。それは『π』という映画の数字列のようなもの、勿論、私にはそんなものなどまるで分かってはいませんから(分かっていたら映画監督になっています)、差し当たっては「状態」の指摘に腐心を、否、それすらもロクにできていないのが現実なわけで、何れにせよ、それを「発見」するには、ひたすらに映画を観続けるより他にないことだけは確かです。

 最後に、此処に書いたすべてはあくまでも私が映画作品に言及する際の「姿勢」あるいは「心掛け」の話であり、残念ながら此処で言うほどのことをどれほども実現しているとは言えません。差し当たって、私が何を考えて、何を理想として映画に関する文章を積み重ねているのか、ということを理解して頂ければ幸いです。私がビデオではなく映画館での「フィルム体験」を殊更に重要視するのも、つまりは「観る」という当たり前の作業を等閑にしないため、です。


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