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夏至
監督:トラン・アン・ユン
2001年7月14日(ル・シネマ1)

 表象としての距離



 旅の恥はかき捨て、という言葉もあるように、人間は何かからの「距離」を隔ててしまえば、普段後生大事に守っている「道徳観」からも案外簡単に解放されてしまうもの、それはつまり、一見個人の資質にのみ依拠しているようにも思われる個々の「道徳観」というものが、あくまでも特定の「社会」や「他者」との「関係」を前提として成り立っているということの証左でもあり、それ故に、その「関係」を無効にし得る「距離」が、「道徳観」をもまた無効にしてしまうのです。「距離」が「関係」を無効するというのは、単純な話、「目が届かなくなる」というようなことで、そう考えてみると、一般に精神的な何かで結び付いているようにも言われる人間同士の「関係」など、所詮は物理的な要因に大いに左右されてしまうという意味で、案外希薄なものなのかとも、遠距離恋愛が上手く往かないのは、所詮は「距離」に左右されてしまう人間の「淡泊さ」にあると、そんなところなのかも知れません。

 此処に於いて人間を既存の道徳観から解放し、「関係」の調和を乱すのもやはり其処に捏造された距離、正に「桃源郷」という表現が相応しい遠方の地で「二重生活」を展開する長女の夫などその好例と言えます。彼自身が「二つの世界」と表現しているように、それはもはや距離を超越したもの、故に、単に既存の道徳観から解放されるに止まらず、其処に発生したもう一つ別の「関係」を成立させるための新たな道徳観が生み出されることに、彼は「二つの世界」即ち「二つの道徳観」を彷徨い、懊悩するのです。実際には「未遂」に終わる次女の夫の場合も然り、彼の場合、もう一つ別の世界を持ったりはしませんが、やはり日常からの距離が捏造されることによって「解放」を得ることになります。

 さて、私が「距離」などという退屈なものに拘るのには理由があって、それはその「距離」こそが映画的に表象され得るものの一つであるという、やはり長女の夫の「二つの世界」というのが分かり易いのですが、人間同士の「関係」という本来表象し得ない抽象的な何かを表象として再現する有効な一つが「距離」であると、この映画にはそれが露骨に顕れているのです。道徳を裏切るもう一人、長女の場合はどうか、具体的な「移動」の描写が排除されている故に、映画を観た誰しもが印象として抱くように、其処に「社会」との物理的な距離は存在しておらず、在るのは(夫の出張によって)相対的に生まれる「特定の他者」(即ち夫)との距離のみ、他の場合とは違って、彼女がとても「解放」されているようには「見えない」所以です(彼女の夫も決して「解放」などされていないのですが、その理由はまた別のところに、既述の通り、もう一つ別の道徳観に縛られている故のことです)。彼女が「無言」というルールを課して其処に「非日常」を模索するのも、他でもない距離の弁明を得られない故、裏を返してみれば、それも「関係」を示唆する映画的表象の一つと言えるのかも知れません。

 それらとは対照的な「関係」が示唆されているのが、三女とその兄(長男?)の近親相姦的なそれ、その前提としてあるのは、血の繋がりに裏付けられた「関係」は(「夫」という他者とのそれとは違って)距離の支配を免れ得るという発想、つまり、どれほどの距離を隔てていてもその「関係」が無効となることはない、むしろ距離が意味を為さない故の「危うさ」が示唆されているわけです。狭い空間で互いに身体を寄せ合うという、此処に表象される「関係」がある種の道徳観を裏切るのは、他でもない、其処に距離を発見できない故、庭先に設けられた食卓に向かう場面で兄と隣り合って座ろうとする妹が「同じものを見ることができるから」と気の利いた台詞を吐くのですが、その状況、即ち「視界の共有」とは表象としての距離を無効にしてしまう動作に他ならず、兄がその提案を受け流すのも、此処に道徳が守られている限り、至極当然のことなのです。仮に、彼らの関係を切り取った描写が「官能的」であるとするならば、それこそが其処に表象として示される「距離」の仕業なのです。

 命日に始まって命日に終わるこの物語に於いては、血の繋がりに裏付けられた「関係」が「死」を以てしても決して揺らいだりはしないこと、肉体の不在が距離を「絶対」にすること、等々もまた示唆されています。

 様々に表象される「距離」が意味を持つこの映画に於いて、では、「時間」はどうかと言えば、物語的には丁度一カ月間の出来事が綴られているにも関わらず、観客がそれを実感することは恐らくありません。ゆっくりと流れる「時間」が反復される兄妹のシークエンス、其処に於ける「反復」は取りも直さず「時間(の進行)」を表象しているはずなのですが、しかし、まるで同じ場面が延々と反復されているかのようなそれは、むしろ「時間」を止めているとさえ、相対的に「距離」への感覚が研ぎ澄まされるというのは、否、少し考え過ぎなのかも知れません。

 フランスにベトナムを創ってしまった『青いパパイヤの香り』の方が余程「美しい」と感じてしまうのは、やはり「無関係な他者」の戯れ言でしょうか?

 公開初日の土曜日の午後、すべての回が満員札止の大盛況でした。私が劇場を訪れたのは午後2時過ぎ、直後に始まる回ではなく、午後4時過ぎからの次回の整理券を貰うつもりだったのですが、しかし、その時間には既に午後4時過ぎからの回も札止の状態、致し方なく午後7時過ぎからの回を、それでも番号は100番を越えていました。劇場を隣に移してまだ続いている『彼女を見ればわかること』の方も相変わらずの混雑ぶり、週末の話とは言え、「ル・シネマ」の高笑いが聞こえてきそうです。(観客の)婦女子率が9割を越えているのも、やはり『彼女を見ればわかること』に同じ、今どきミニシアターで一財産を企むなら「二十代独身OL」をひたすらに付け狙うのが常套のようです。


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