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ニュー・イヤーズ・デイ 約束の日
監督:スリ・クリシュナーマ
2001年7月15日(シネスイッチ銀座1)

 こんな映画は…



 映画評、映画作品を論ずるという動作が非生産的にして敗北主義的なものであるに過ぎないのは、先ず以て映画作品が存在しなくては映画評もまた存在し得ない故、主従の関係で言えば、例えば、如何にも退屈なゴミ映画と(それを評する)文学的で美しい映画評をしてさえ、前者が「主」で後者が「従」であるという当たり前な「関係」を打破することは不可能、それは「ゴミ」と「ゴミ箱」の関係にさえ劣ります。ゴミを前にしてゴミ箱にすらなれない私(や蓮實重彦)は如何に振る舞うべきか、何かを必死に罵倒してみたところで、目の前からその「何か」が失われてしまえば、私によって発せられた有らん限りの言葉はひたすらに宙を彷徨うのみ、その言葉を繋ぎ止めていた「何か」の帰還を待つより他には為す術もありません。否、単に私個人の状況を転換させるという話ならば、差し当たって「主」の側にでも回ってみれば、この忌まわしい「負け犬根性」とも簡単にお別れすることができるのかも知れないのですが、しかし、それは「映画評一般」に付き纏う問題を解決することには決してなりません。私が此処に模索すべきは決して宙を彷徨わない言葉、主従の関係を覆し、ゴミのような映画を私に付き従わせる言葉、さて?

 特に「物語」との関係に於いて、あらゆるすべての「カット」と「カット割」に違和感を覚えた、などと言ってしまっては身も蓋もないのですが、しかし、単に私の印象の話ならば、そう評するのが適当です。例えば、最後の「飛び込み」の場面、まるでセスナ機から勇躍飛び降りるジェームス・ボンドを捉えるかのようなカット割は、その故に、ジェームス・ボンドが地面に叩き付けられて即死するなど誰も予想したりはしないように、そのカット割自体が既に「結論」を教えてしまっているのです。勿論、それを予め意図されたこと、つまり、その段階で(観客に)結論が知れても一向に構わないとされていると解することも確かに可能なのですが、しかし、そうなると今度はその前後の場面やカットとの演出上の矛盾を指摘しなくてはならなくなってしまいます。この一連のシークエンスがその結論も含めて何らか意味を持つためには、「生→死→生」という展開であるべきなのだと思うのですが、その「死」であるべき部分がまでもが既述のように「生」となっている故に、このシークエンスはどれほどの意味も持ち得ないのです。もう少し具体的に指摘すれば、先ずは飛び降りるまでの長い助走、「死のうとする意志」とは紛れもなく「生」の領域に属する、否、これほど生々しい「生」もないわけで、あるいは、その「長さ」は行為の中断、極めて楽観的な結論を予感させもし、疾走する二人の表情をクロースアップで捉えるそれは見事にその「生」を切り取っているとさえ言えます。では、「死」は一体いつ訪れるのか、現実には、彼らが海面を直撃したときか、あるいは海に沈んで呼吸停止したときということになるのでしょうが、しかし、映画的な「死」とは、彼らの足が宙に浮いた瞬間、ニュートンが発見した法則に逆らえなくなったときに訪れるのです。断崖までの「全力疾走」によって表象されていた「生」が、その運動の停止と同時に「死」に転じる、それが「映画」であり、また、このシークエンスのあるべき姿のはずなのですが、しかし、実際には「切り返し」と「引き延し」という、万有引力の法則すら無効にしなかねない動作によって彼らの運動は無様にも継続されてしまい、決して「死」に転じたりはしないのです。その後に訪れる「結論」からしても、これでは「メリハリ」に欠けてしまうのは言うまでもないことです。些かの妄想を許してもらうとして、私なら、カメラを断崖に固定して彼らの落下する様をただ俯瞰するに止めます。あるいは、何処から捉えるにせよ、切り返したり時間を捏造したりすることは決してないでしょう。もし仮に、この映画のそれのように「生の持続」として撮るのならば、逆にその前の「助走」を短くするか、それ自体をなくしてしまいます。要はバランスの問題、助走が長く、宙に浮いている時間も長く、海面を捉え続ける時間も長い、緊張感の欠片もないのです。

 一事が万事、私の如きに「才能が無い」と言われては立つ瀬もないのでしょうが、無いものは無いのですから致し方がありません。二人の少年の家庭環境等の、露骨に記号化された余りにも陳腐な対比、否、それはそれで良いにしても、では、何故ジャクリーン・ビセットがキッチンで野菜を切っていたりするのか、仮にそれが何かの「現実」を指摘しているにしても、果たしてそんな場面が必要なのか、そもそも彼女がとんでもない大根役者にしか「見えない」のは一体誰の所為なのか? 例えば、少年Aだけが知っている事実がある、暫くして観客がその事実を共有し、物語の最後に少年Bの知るところとなる、その流れのタイミングの悪さ…。

 さて、主従逆転を図るべくの「言葉」は相変わらず見つかりません。いつもに比べれば幾らか威勢の良い文言を並べながらも、しかし、苛む無力感は加速度を増す一方です。こうなったら自棄になるより他ありません。例えば、こんな「言葉」はどうでしょう?

 こんな映画はオレにでも撮れる!

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、ガラガラでした。夏休みにはまだ少し早いのですが、物語内容に連動してか、「シネスイッチ銀座」にしては珍しく、観客に十代の若者が随分と目立ちました。
 パンフレットの「経歴」を参照する限り、この監督のキャリアに「MTV」は見当たらないようなのですが、音楽(「スパークス」なんて久しぶりに聴きました)が鳴り出した途端に(映像が)元気になるというのは興味深いところ、あるいは、音楽のリズムを借りなければ映像のリズムを掴めないということなのかも。何れにせよ、私はこの映画を犯罪にも類する「ゴミ映画」と断じて憚らないのですが、しかし、それは決してこの映画の物語内容を指摘したものではありません、念のため。


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