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レクイエム・フォー・ドリーム
監督:ダーレン・アロノフスキー
2001年7月20日(シネセゾン渋谷)

 表層を漂う恐怖



 もしカットが早いということでMTV映画という呼び方しかしてくれなったら、それは最低のけなし言葉だ。アイデアを見るという点ではとてもMTVのことが好きなんだけどそこにはストーリーを語るものが何もない。

 パンフレットに転載されていたダーレン・アロノフスキー監督のインタビュー記事からの引用です。監督はこの映画に試された「ヒップホップ・モンタージュ」(監督自身による表現です)をあくまでも「物語をより効果的に語るため」の手段に限定されたものであるとし、所謂「MTV的」な、物語を停滞させることはあっても、決してその進行を促したりはしない映像との差別化を要請しています。私が監督のインタビュー記事をわざわざ引用してまでその指摘を繰り返すのは、それが、私が以前ガイ・リッチー監督の『スナッチ』に関する文章で指摘したことをそのまま裏付けてくれるものである故、私が随分と気を良くして、些か調子付いているのが分かってもらえるでしょうか? 否、それはともかくとして、この発言は、今どきのハリウッドに雨後の筍のように出現した「MTV出身監督」の蹉跌を正しく指摘するものでもあり、彼らが彼らなりに培ってきたはずの映像技術の活用が、こと「映画」に於いては悉く空虚な営為に堕してしまう理由が其処に、つまり彼らのそれは少しも「物語」を動作させていないのです。『ザ・セル』に関する文章でも指摘したのですが、彼らが、あるいは革新的なのかも知れないその映像技術を物語映画に持ち込むのは、あくまでも物語とはまるで関係のない場面、物語を一旦「停止」させた後のことであり、では、彼らが「物語」をどのように動作させているのかと言えば、それは至って保守的な、その限りに於いては(技術的にも)ハリウッドの職業監督には遠く及ばない故に単なる「下手糞」としか評しようのない仕方によってなのです。彼らは自身の得意とする何かを彼らの「個性」をひけらかす唯一の手段として(図々しくも)「映画」に紛れ込ませているに過ぎず、其処に「融合」や「応用」の意志は皆無、つまり、自身が既に有する、既に何らか評価されている技術に対してさえ保守的になっているのであり、とどのつまりは「彼らにとって映画とは一体何なのか?」という疑問と対峙せざるを得なくなってしまうわけで、もし仮に、MTVよりは余程規模の大きな「ビジネス」という発想でしかないのなら、映画を1本撮るよりもビデオクリップを40本撮る方が余程世の中のためになると、私ながらにそう提案しておきましょう。

 さて、「省略」と「反復」によるこの映像の連鎖が「恐ろしい」のは、誰しもが指摘するように、それがドラッグの「常習性」を表現している等々、確かに、そんな教育的な態度も其処には見受けられるのですが、しかし、例えば、ジェニファー・コネリーが何処かの芝生の上で空を見上げる場面に始まって、其処に合流した主人公と何処かのビルの屋上での他愛もない遣り取りを経由して、またその芝生に戻ってくる(ビルの側からと思われる俯瞰気味のショット、スクリーンの下から上へ二人が駈け抜けます)という一連のシークエンス、このシークエンスの物語的な主眼は勿論、二人の関係や彼らの些か無軌道な行動を観客に対して「説明」することにあるのですが、しかし、単なる「映像の連鎖」としてそれを見た場合、律義にも場面が「芝生」に戻る(物語的に彼らが、という意味ではなく)ことによって(エレベーターでの上り下りの場面が均等であることも含めて)ビルの屋上を「折返した」とした一個の「シンメトリー」を完成していること、あるいは両者を繋ぐカットが些か唐突である故に「芝生」と「ビル」の間に不気味な空間の断絶が予感されること等々、この映画の「恐ろしさ」とはそんな、容易に「意味」に取り込まれることのない「表層」にもまた漂っているのです。確かに、それらをあくまでも物語に従属する機能として説明するならば、それが即ち「反復」と「省略」であり、既述の通り、此処に於けるそれらは、凡庸なMTV作家のそれとは違って、物語を動作させ得る十分な機能をも有しているのですが、しかし、決してそれに止まらないところがこの作家の非凡なところと言えます。否、表層として目撃される「シンメトリー」や「断絶」の一体何が「恐ろしい」のか、と、残念ながら、それを此処で説明することは私の能力に限りがある故に能わない、もし仮に何らかの「言葉」を当てることができたにせよ、しかし「感覚的」である以上のものは何も、兎角にも「恐ろしい」と、観ていただくより他はありません。

 ダーレン・アロノフスキーやガイ・リッチーの世代というのは、それはこの監督の発言にもあるのですが、その映像表現の発見に於いて「ヒップホップ」の影響を無視することはできないようです。私にとって、例えば、ドラッグ体験の映像化ならば、デニス・ホッパーが試みたような、何かが「反復」されるにせよ、およそ冗漫な「垂れ流し」とでも呼ぶべきものの方がむしろ受け入れ易く感じてしまうのは、やはり彼らと同世代でありながらも80年代を専ら60、70年代の追体験に費やしてしまったことが大いに影響しているのかも知れません。しかしかと言って、その「ヒップホップ的」な表現に取り立てて違和感を覚えるでもないのは、「ヒップホップ」もその流れを遡ってみれば、例えば、バロウズなどの「ビート文学」に辿り着くのであろうように(実際、彼らの映像表現は「カット・アップ」以外の何ものでもありません)、「ヒップポップ」という或る時代の表層文化の一つは単に彼らにとっての「発見の契機」であったに過ぎず、其処に生まれた表現やその底流に在るものは、普遍的とは言わないまでも、もっと幅の広い何かの顕れであるからに他ならないのでしょう。尚、余談ですが、この映画に於ける「反復」で先ず想起したのは、『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダーでした。

 公開から既に何週か経っている祭日の午後、ほぼ満席だったのではないでしょうか。と言うのも、私が入場したのは既に予告編等が始まってから、本来はその次の回を観るつもりでいたのですが、受付の女性に「まだ座れますヨ」と些か強引に入場を促された故そのようなことに。しかし、その割には会場は既に真暗で(劇場によっては予告編の際は薄く明かりを残しているところもあります)、席を見つけるのにも一苦労、座席の間を抜けるときなど「チッ!」とか、随分と嫌な顔をされてしまいました。劇場へはお早めに。


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