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焼け石に水
監督:フランソワ・オゾン
2001年7月21日(ユーロスペース2)

 解体し、搾取する



 スクリーン、あるいは舞台に於ける人物の配置がそのままそれら人物間の「関係」を示唆しているのはよくある話で、例えば、男二人と女一人の三人の場合、真中に女を置いてその両脇に(均等に)男二人を配置するという構図は多くの場合「三角関係」を示唆します。今さら分かり切った話なのですが、しかし、もし仮に左から「男男女」の順番に並んでいたならば、其処に「三角関係」を発見する人など殆どいないはず、肝要なのは、其処に目撃されるのがあくまでも「配置」に過ぎないということであり、それが「関係」即ち「物語」を既に内包しているということです。この「並び順」に「距離」の要素が加われば、それが示唆し得る「関係」はさらに多様化(例えば「男女男」の並びで左側の男が少し離れた場所に配置されていれば、それは右側の男の優位を示唆することに)、しかしそれでも、其処に目撃されるのはあくまでも物理的な何かに過ぎないのです。

 興味深いのは「サンバダンス」の配置です。スクリーン向かって左からアナ、レオポルド、ヴェラ、フランツの順で横一列に、その間隔は均等です(四人が並ぶことによって生じる三つの空間の背景のそれぞれに同じ形状の窓枠が当てられていることからも、これが意図された配置であることが容易に知れます)。さて、この配置は如何なる「関係」を指摘しているのか、偶数である故に中心が不在、細かい話を抜きにすれば、左から「女男女男」の順で、左右対称でもありません。女男女男…、その配置が何かを予感させるとすれば、それが何処まで続こうともその一定の規則が常に守られているのであろうこと、即ち其処には然して重要とも思えない「規則性」を発見する以外何もないのです。これが人間同士の、取り分け「愛」に関する物語である以上、その紅白幕のような「規則性」が何かの「関係=物語」を指摘するなどおよそあり得ないこと、其処にはつまり「何もない」のです。

 その「サンバダンス」までの「物語=関係」を辿ってみると、先ずはフランツとレオポルドの関係が示され、次にフランツとアナ、そして其処にレオポルドが加わって、在り来たりな「三角関係」に発展するのかと思いきや、四人目(ヴェラ)の出現によって事態は渾沌と、場面が「サンバダンス」に転じるのは正にそのときです。この場面が四者の「関係」によって張り詰めた緊張を一時的であれ解すことになるのは、このダンス、彼らの踊る様が些かコミカルだからというそれだけではなく、其処に至るまでにそれとなく指摘されてきた四者の「関係」が此処で一旦「無効」となる故、この場面に於ける「配置」がそうなるよう機能しているのは既に指摘した通りです。文字通り「平和」なこのダンスを中断し、場面の転換を企てるのが他でもないレオポルドであるのは、それ以後より鮮明となるこの四者の関係をしてみれば至極当然のことです。

 此処に明らかとなる四者の関係は「レオポルドとそれ以外」というそれ、フランツとレオポルド、アナとレオポルド、ヴェラとレオポルド、しかも、それぞれの関係の意味は殆ど同じで、此処に於いては、その意味を同じくする関係がひたすらに反復されているに過ぎないのです。レオポルドと関係する三者がそれぞれにその「性」を異にしているという確信犯的な設定は、表層の多様性など所詮は「遊技」であるとし、その存在を信じて疑わない普遍的な、即ち「ひたすらに反復される」何かをその奥底に隠しているからに他なりません。これは四者四様の「愛」などという生易しい物語ではなく、唯一つと信じて疑わない「愛」とそれがもたらす絶対的な「関係」の物語、絶対的である故にひたすらに反復されるしかないのです。

 そう考えてみると、「サンバダンス」の配置が見せたあの一見して無意味な規則性すら何かを示唆しているようにも、否、それは深読みが過ぎるのでしょうが、しかし、何れにせよ、「サンバダンス」が物語的状況の「解体/再構築」を促し、その意味を明らかにすべく有効に機能しているのは間違いのないことで、それが同時に観客に「息抜き」の余裕をも与えるという(要は「観ていて愉しい」ということ)、「映画的に優れた」とは、このような場面を指して用いるべき言葉なのでしょう。

 この映画がファスビンダーの原作戯曲を元に作られているのなど、私が此処にわざわざ書くまでもなく既に知れた話だと思うのですが、この「サンバダンス」の場面がファスビンダーの原作にあるのかどうかは、残念ながら私の知るところではありません。私としてはあくまでも「フランソワ・オゾンの仕事」という認識でこの文章を、あるいは、それ以外の部分が余りにも「ファスビンダー的」である故に、差し当たって「サンバダンス」に言及するより他になかった、とも。何れにせよ、これが誰の仕事であるにせよ、素晴らしい映画であることに変りはありません。

 公開初日の土曜日の夕方、日中は暑くて外出する気にもなれなかった故に最終上映回を観ました。客席は3分2くらいが漸く、そもそもが客席数の少ないユーロスペースの単館上映での話ですから、同じ「映画」でも、スピルバーグと宮崎駿が熾烈を極めているある種の状況とは随分と遠く離れたところに、しかし、これもやはり「映画」です。
 余談ですが、幾ら映画を観るためとは言え、週末に渋谷を訪れるのなどかなり気の重い作業、大抵の映画館に辿り着くためには先ず以て有象無象雑踏との格闘を余儀なくされます。しかし、渋谷駅南口にあるユーロスペースの場合、その心配はまるでなし、そもそも南口は(北口のあの状況からは考えられないくらい)人が少ないのです。ユーロスペースという映画館が好きな理由の一つ。尤も、ユーロスペースの階段を上る途中でどうしても目に入ってしまう階下の「巣窟」には毎度ゲンナリとさせられてしまうのですが。


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