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けものがれ、俺らの猿と
監督:須永秀明
2001年7月22日(シネクイント)

 真面目で保守的な



 一般に脳内言語というものは、実際に発話される、他者との意志疎通を目的とした言葉とは少し違っているようで、勿論、個人差はあるのでしょうが、仮に脳内言語をそのまま発話したとしても、十全な意志疎通には至らないようです。簡単に言えば、脳内でのみ処理されるそれは、発話されるそれと比べると随分と省略が多く、殆どが単語の羅列のようなものなのだとか。尤も、「脳内言語を確認してやろう」などと目論んで脳内に現れる言語というのは、其処に意識が介在している分、むしろ発話されるそれに近いものになってしまうわけで(何故ならば、其処にある種の「対話」が成立してしまう故)、そんな意識とは程遠いところで、およそ無意識のうちに現れる言語というものは、やはり発話されるそれとは随分と違っているはず、純粋なそれは意識の介在を許さない故に、自身で簡単に確認が出来そうで、しかし出来ないという、実にもどかしい存在なのです。

 映画や小説などでモノローグの形を借りて現れる、他者に向けて発話されるそれと殆ど変わりのない脳内言語というのは、その意味に於いて、まるで現実的ではなく、時としてそれを「空々しい」と感じてしまう理由も、案外そのあたりにあるのかも知れません。しかし、かと言って、現実主義を貫くべく脳内言語をより正確に再現したのでは、観客や読者との意志の疎通が曖昧に、結局、映画や小説に於いてはモノローグもまた「対話」の一形態に過ぎないということなのです。ただ、文学や映画に於いて、脳内言語をそれなりに再現しようとする試みがないわけでもなくて、例えば、福永武彦の小説に於けるカタカナで表記された途切れ途切れのモノローグなど多分に脳内言語を意識したものなのでしょうし、ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』での天使のモノローグにしてもそう、ゴダールが差し出す言葉の断片も、あるいはそうなのかも知れません。また、私はまるで門外漢なのですが、現代詩など、それを思わせる(一見して前衛的な)作品も少なくないような印象があります。何れにせよ、映画に於いて再現されるそれは、あくまでも観客との意志の疎通を前提とした、言わば観客に向けた発話行為にも等しい故に、現実の脳内言語とは程遠いものに、それは本来的に第三人称のメディアである「映画」が装い得る第一人称の限界を指摘しているとも言えます。

 さて、既にして現実的ではない脳内言語をさらに発話行為に置き換えてしまうそれが現実的であるはずがありません。独自の饒舌体によって構築された町田康の小説世界を映像に置き換えるとなると、やはりどうしても「言葉」が余ってしまうのか、この映画の主人公は終始ブツブツと独言を吐いているという、映画の主人公でもなければ相当の異常者の体を示しています。しかし、原作小説のそれは勿論(第三者向けに変換された)脳内言語として示されているわけで、映画に於いてもその通りに、例えば、人物の口は閉じたままで音声をリバーブ処理するという映画的に再現される脳内言語、即ちモノローグとして示す方法もあったはず、それを敢えて発話行為として示したのは、やはり原作小説に於ける言葉の過剰がそうさせる、それを映画に置き換える場合、その方がむしろ「自然」であると、そんなふうに考えたからなのかも知れません。ただ、脳内言語を発話行為に置き換えるというそれは、そうする以外に(観客への)意思伝達の手段を持たない舞台演劇を連想させるわけで、映画を見慣れている人間にとって舞台演劇に於ける諸々の表現が些か過剰で煩わしいものに感じられてしまうのと同じことをこの映画に感じてしまう人が多いのは間違いのないことでしょう。過剰で煩わしく非現実的、否、あるいはそれこそが町田康特有の小説世界なのであり、その意味に於いては、原作小説が正しく再現されているとも言えるのですが、しかし、それはあくまでも「言語活動」に関わる話であり、必ずしも「映画的に」という話でもありません。何れにせよ、ある種の「過剰」を処理するためにスクリーンに在る人物達は(異常を承知で)とかく発話せずにはいられない、町田康の小説を映画化する場合の宿命のようなものでしょうか。「言葉」が余ってしまうのです。

 あるいは単なる「悪ふざけ」にしか見えないのかも知れないこの映画、実は非常に「真面目」な映画で、と言うのも、些か悪ふざけが過ぎるように見えてしまうのは、実際、原作小説がそうだからなのであって、この映画はその悪ふざけを愚直に再現しようとしているだけ、その態度は非常に真面目なのです。音楽ビデオ出身の監督というのは余り好きにはなれないのですが、それでもこの映画にそれなりに期待していたのは、そのような人の方が、この原作小説を、原作小説の表現に囚われない映画的に自由な換骨奪胎によって再構築するということに限っては、むしろ向いているのではないかと、そんなことを私なりに考えていたからなのですが、確かに、やはり映画化された『人間の屑』と比べれば、幾分不真面目であるようにも思われるのですが、それでもしかし、原作小説をひたすら忠実に再現しようと試みられているに過ぎないそれは、活字を追い掛けるときの深淵に引きずり込まれるような感覚に遠く及ばないことも含めて、やはり余りにも退屈です。この奇妙な映画をして「保守的」と評するのなど余りにも莫迦げた話のように思われるかも知れませんが、しかし、言葉の過剰に抗し切れず迂闊にも発話させてしまうそれなど正にそうなのですが、結局、今どき世に多いその他有象無象の音楽ビデオ出身監督に同じく、原作小説の世界からの逸脱を試みるほどの独自性には足りないと、やはり、そういうことなのではないでしょうか。

 公開二日目の日曜日の午後、予想した通りの混雑ぶりで、満席でした。やはり出演者の顔ぶれと「渋谷」という街が合っているのでしょう、そんな感じの若者が大挙して押し掛けていました。彼らは館内が明るくなると口々に「オレ原作読んでネーからゼンゼン分かんなかったYO!」と、私としてはむしろ「オレこの感覚スゲーよく分かるYO!」とか得意満面に口にする阿房が多いと予想していた分、何となく拍子抜け、彼らもまたその外見に似合わず、案外真面目で保守的であるという事実を発見した次第です。


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