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PLANET OF THE APES / 猿の惑星
監督:ティム・バートン
2001年7月28日(新宿グランドオデヲン座)

 不確かなるもの



 この映画は頗る評判が悪いようで、旧作の人気、ティム・バートンへの期待等々、それは裏を返してみれば、幾つかの要因が重なってこの映画が些か期待され過ぎていた証左に他なりません。これが例えば『パールハーバー』の話ならば、まともな映画ファンはマイケル・ベイやジェリー・ブラッカイマーに映画的に良質な何か期待するような愚かな真似はしませんから、「案外良く出来ているな」という意見はあっても「カネ返せ!」と怒ることなどないはず、それでも敢えて観に行く人というのはカネをドブに捨てる覚悟が予め出来ているのです。つまり、映画の感想や評判(の程度)というのは必ずしも作品それ自体の質を正しく指摘するものでもなく、往々にしてそれ以外の、作品自体とは余り関係のない要因(例えば「期待」とか)に左右されてしまうもの、要は「アテにならない」ということです。
 と、そんなつもりで映画館に足を運んだのですが、しかし、正しく評判通りの、本当に出来の悪い映画でした。既に多くの人によってこの映画の不出来な部分が指摘されていますから、捻くれ者の私としては、今さらそんなことを繰り返しても詮方がない、多少でも良い部分を見つけて徹底的に擁護してやろうと、そんなことを考えてもみたのですが、しかし、猿の如きの所為で私の頭の具合を疑われてしまうのも心外ですし、実際、そんな箇所を見つけるのさえ困難な出来、『スリーピー・ホロウ』と同じような、刃物を振るうときの「シャキーン」という大仰な金属音に心を躍らせるのが漸くでした。

 例えば、少年の跨った馬が転倒して主人公が勇躍それを助けに走る場面、この場面が不本意にも「トリッキー」に見えてしまうのは、其処に迫りつつある猿軍団との「距離」が不確かである故、鐙から片足が抜けずにもがく少年、少年を助けるべく走る主人公、そして其処に迫りつつある猿軍団、これら三者の「カットバック」は確かにその場面にそれなりの緊迫感をもたらしはするものの、しかし、あるいは単なる編集ミスなのか、その編集によって観客が感覚させられる「距離」と物語的に説明される「距離」が酷い食い違いをみせている、要は「そろそろ追い付いてもいいはずなのにいつまで経っても追い付かないぞ?」と、観客はそんなふうに思ってしまうのです。これが確信犯的な動作ならば、実際には100メートル以上離れているにも関わらず恰も10メートルに迫っているかのように「見せている」のですから、殆ど「詐欺」にも等しい動作と言えます。否、そもそもがこれは「映画」なのですし、そのくらいは「御愛嬌」で済ませるにしても、しかし、この映画に於いてはその「距離」がおよそ全編に渡って不確か、つまりは「空間」がまともに表象されていないのです。単純な話、例えば、主人公が不時着した森と、その後連れて行かれた猿の集落、そして物語後半の主な舞台となる「禁断の聖地」、それらの位置関係もさることながら、それらの間に一体どれくらいの距離があるのか、大抵の観客には見当も付かないはずです。この映画の「空間」に何かを発見し得るとすれば、物語前半はセット撮影が中心である所為か異様に狭く感じられ、ロケーション撮影が多くなる後半は何となく広々と、精々その程度です。しかも、この物語は追いつ追われつの「逃亡劇」でもあるわけですから、其処に於ける距離感の不在はもはや致命的、件の「少年を助ける場面」で感じたのと丁度同じことをその「逃亡劇」にも感じざるを得ないのです。そして、さらに悪いことに、此処に於いては「空間」に負けず劣らず「時間」もまた不明瞭で、やはり単純な話、この物語の始めから終わりまで一体どのくらいの時間が流れたのか、否、真面目な話、「二時間」と答えたくもなってしまうのです。何れにしても、そういった、表象されるべき何かの不在が「物語」に及ぼしてしまう影響は案外大きくて、例えば、物語的なことで言えば「この主人公が様々に訪れる異常な『状況』をいとも容易に受け容れてしまう(ように見える)、何一つの懊悩すらも其処にはない(ように見える)、故に…」という指摘、それも此処に於ける極めて不明瞭な「時間」や「空間」と決して無関係ではなくて、何故なら「懊悩」や「逡巡」は時として「時間」を表象するものでもある故、より深い悩みはより長い時間を、あるいは、より長い時間はより深い悩みを、大仰な身振り、俳優の熱の籠もった「演技」ばかりが「懊悩」を表象するわけでもないのです。主人公がその惑星の恐るべき真実を理解したとき、彼は果たしてどのくらいの「時間」悩み続けたのか、それが不確かである故に、彼の「感情」もまた不確かなまま観客に差し出されることになるのです。否、もし仮に、スクリーンに目撃された通りの、観客が直接的に感覚し得る限りの「時間」しか彼が悩まなかったのならば、それはそもそもの「物語」が不出来であると、そう諦めるより他はありません。

 物語状況的に旧作と決定的に違っているのは、今回のリメイクでは人類が言葉を話せるということ、確かに、その起源を遡れば人間が言葉(英語)を話すことができる正当な理由は一応あり、むしろ言葉を話せる方が状況的にも辻褄が合うのですが、しかし「言語の有無」というのはそのままその「種」の知性の程度を示すものでもありますから、その状況は「支配/被支配」の関係という、この物語の根本に関わる部分を些か曖昧なものにしてしまいます。つまりは、此処に於いて猿も人類もその知性が同程度(実際、主人公に同行した数人に関して言えば、その知性が猿に劣っているようにはとても見えません)ならば、人類が猿に支配されている状況は説明が付かないということ、物語上の説明では人類の方が数の上でも上回っているようですし、人類が何らか劣っているとすれば、それは身体能力、確かに、人類は「セード将軍」のようにピョンピョンと飛び回ったりは出来ません。しかし、それ故に、という話では余りにも無邪気過ぎます。此処に於ける主眼は、あるいは「支配/被支配」の関係を決定付ける要因の不在にこそあるのかも、現実の世の中を省みれば、確かに、支配や差別の構造など説明不能なことも多く、まるでアプリオリな何かであるかのように受け容れてしまっているところも、「人類は何故猿に支配されているのですか?」「それは人類だから」と、ある意味「現実」を正しく指摘しているとも言えます。尤も、そんな高尚な主題を隠すような「表層」ではとてもありませんが。

 公開初日のオールナイト上映、個人的な都合もあって午前3時過ぎからの(オールナイト上映の)最終上映回を、さすがにガラガラかと思いきや、客席の8割方が埋まっているという異常な混雑ぶりでした。ただ、やはり時間が時間だけに前回の上映からの居残り組も多数、また、やはり時間帯に加えて土地柄の所為もあってか、勤務明けと思しきオネエさんのグループも複数、一昔前のように酔払いがグウと鼾をかいているということはさすがにありませんでしたが、一種異様な雰囲気であったことは確かですね。


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