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ラッチョ・ドローム
監督:トニー・ガトリフ
2001年8月5日(イメージフォーラム2)

 流通と複製のシステム



 音楽と著作権を巡る問題など今に始まったことでもないのですが、当節「複製」と「流通」の技術的進歩を受けて、何かと騒がしくなってきているようです。確かに、著作者の権利を尊重、保守するというのは尤もな話なのですが、しかし、そのために市場に於ける速やかなる「流通」が妨げられてしまうというのも何となく本末転倒な話、何よりも「音楽」とはより多くの人の耳に届けられてこそのもの、誰の耳にも届かない「音楽」など存在していないのも同じなわけで、と、否、それは極端な話であるにしても、しかし、所謂音楽業界で「メジャーになる」という動作が、およそ「既定の流通ルートを確保する」という動作に同義であるという「常識」を鑑みれば、著作権を巡るゴタゴタの正体が何となく見えてくるもの、先ず以て「流通」が支配されている状況があって、誰にでも(私にでも)主張でき、それだけではどれほどの意味をも持ち得ない「著作権」というものは、その既に在る「流通」との関わり合いに於いて初めて「経済」に貢献し得る何ものかに変じると、つまり、今どき「音楽」の(経済的な)価値を決定するのはその「流通」を支配する何ものかに相違なく、各々が主張し得る「権利」それ自体には何の(経済的)価値もあり得ないということです。ナップスターが音楽業界を震撼させたことの一つは、その驚異的な流通能力、「CDが売れなくなる」というより「CDという媒体が不要になる」という状況に、CDなりLPなりの媒体とその権威を以て「流通」を操作してきた連中が大いに狼狽したであろうことは想像に難くありません。

 そのようなことを思うにつけ、では、著作権の概念が消滅してしまうと、「流通」に代表される「音楽産業」が壊滅的な打撃を受けてしまうであろうことは先ず間違いないにしても、「音楽」それ自体は一体どうなるのかと、この映画にはその答えがあります。此処に於ける「流通」と「複製」のシステムは至ってシンプル、ジプシー達の演奏の場面で必ず子供達の視線を捉えた「切り返し」が挟み込まれていることなど如何にも作為的な動作だと思うのですが、およそ直接的な体験によって伝承(複製)され、「人間の速度」に於いて「時間」と「空間」を流通する、否、それを単なる「原初的な在り方」と断ずるのは早計、(我々がよく知る何かと比べて)足りないものがあるとすれば、それは所謂「音楽産業」という、時として「差別の装置」でもあり得る「流通のシステム」が欠落しているに過ぎないのです。ジプシー達が音楽の演奏を生業としている以上、勿論、其処にも「経済」は存在します。しかしそれは、例えば「著作権」のような、制度を起源とする経済ではなく、むしろ、経済活動それ自体が制度である、其処に「経済」が発生することによって彼らの存在が制度化されると、従って、決して第三者的な存在によって「守られる」ようなものではなく、また、それは其処にもやはり機能する「差別の装置」に於いても同様で、制度が何か差別するのではなく、差別する(される)ことが一つの制度なのです。何れにせよ、此処に紛れもなく存在する「音楽」は、巷間の退屈な騒動とはまるで無関係な場所で、その本来の姿を我々に差し出しています。我々のその体験があくまでも「映画」という権威主義的な「媒体」に依拠したものであるという皮肉はさておき。

 今どき「ドキュメンタリーを装ったフィクション」など別段珍しくもないのですが、この場合は「フィクションを装ったドキュメンタリー」とでも、カメラワークや編集は正しくフィクションのそれです。既述の「子供達の視線」などもそうですが、ジプシー達の演奏が始まればその車座には犬まで寄ってくるという、「ドキュメンタリー的」な何かを期待していた人には白々しいと感じてしまう場面も多いのかも知れません。しかし、フィクションが幾らでも「ドキュメンタリー的」であり得ることからすれば、ドキュメンタリーが「ドキュメンタリー的」である必要など実は何処にもなくて、否、そもそもスクリーンに切り取られるものなど、それが捏造された第三者の視線である以上、所詮は虚構、既に意志の介在した「視線の挙動」が何かを決定しているに過ぎないのです。此処に現実的な何かが切り取られているとすれば、それは「音楽」以外の何ものでもなく、そうやって差し出された「現実」を前に、それ自体が既に虚構である「視線」などまるで、否、それが不満なら目を閉じて「視線」を拒絶すれば良いだけの話、大人しく耳を傾けているだけでも十分に価値のある映画です。時間と空間を人間の速度で流通し複製される、故に、圧倒的な「現実」であり得るのです、それは。

 示唆的なタイトルバックのそれから何度も反復される水と炎のイメージ、それらが生命と文明の起源、象徴であることなど今さら指摘するまでもないのですが、此処に在るのは正しく水と炎と音楽と人間、さて、足りないものが一体何処にあるというのでしょう?

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、客席は半分も埋まっていませんでした。どれほどの予備知識もなくこの映画に足を向けたのは、それが「音楽」の映画であった故(それが唯一の予備知識)、此処に目撃されたものを商業主義的な何かと対置して論じるなど如何にも感傷的でナイーブであると、そんなことを思いつつもこのような文章を書いてしまったのですが、否、とかくも「音楽」であると、それは水や炎と併置されるものなのです、と、最後までワケが判りませんね。


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