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シャドウ・オブ・ヴァンパイア
監督:E.エリアス・マーハイジ
2001年8月11日(シネ・アミューズ)

 気違いに刃物



 一般に「ドイツ表現主義」と呼ばれている一連の映画は、あの黒と白の強烈なコントラストに象徴されるような、その些か過剰な映像表現によって本来表象され得ないもの(例えば「恐怖」など)をスクリーンに視覚として提示しようとした試みであり、従って「差し当たってカメラを回せば其処に何かが映る」といった類の安易な「現実主義」とは一線を画するものであると、私はそんなふうに理解しています。元来「再現のメディア」として他を圧倒する「映画」は、その初期に於いて、むしろそれ故にその芸術性を疑われもしたのですが、「ドイツ表現主義」が試みたような、スクリーンへの優れた「人為」の介入が「映画」の表現媒体としての可能性を高めていったのは今さら指摘するまでもないことでしょう。「吸血鬼を演じていたのが実は本物の吸血鬼だった」というこの映画の奇抜な着想が、それ自体は確かにユニークではあっても、しかし、およそ不穏当なものであると指摘せざるを得ないのは、その「現実主義」を模索する姿勢が如何にも安易である故、つまり「本物」を其処に捉えればより「現実的」であるなど、「映画」にとってむしろ退行を促す発想でしかないのです。さらに言えば、ブレヒトが『人非人』という小説で既に指摘しているように、「本物」と「映画的現実」はむしろ相容れないもの、現実の場面に於いては誰しもが不自然に感じてしまう過剰な「身振り」も、それが舞台やスクリーンに捉えられている限りに於いては、むしろより「現実感」を引き出し得るなど、然して驚くべきことでもありません。やはり何よりもの問題は、それが「ドイツ表現主義」という、映画が単なる「現実の再現」であることを否定した状況に持ち込まれてしまったこと、「贔屓の引き倒し」とでも言うべきか。

 斯様に「情熱」のベクトルがあらぬ方を向いてしまっているのは甚だしくも残念なのですが、「吸血鬼」をそのメタファーとする、映画監督という特異な人種のエゴイズムを指摘したものとみればそれなりに愉しめる映画です。その昔、カメラが「魂を吸い取る」と真剣に恐れられていた時代もあったようなのですが、物語のクライマックス、ムルナウが黙々と「手回しカメラ」を回す場面は、その「回す」という動作が取り分け有効に機能して、カメラ、あるいはそれを回すムルナウ自身が其処に捉えられた「現実」を吸い取っている(その視線の先にあるのがメタファーとしての吸血鬼)かのよう、カメラを回しながらもブツブツと場面を解説する彼の姿と相俟って、正に「気違いに刃物」です。其処に於ける(カメラの)レンズのクロースアップは、ヒチコックのシャワーや排水口のクロースアップにも似たある種の「恐怖感」を演出、案外迫力があります。しかし、繰り返しになりますが、そうやって対象を「吸い取る」かのような尋常ならざる執念は、確かに、映画監督という特異な人種の普遍的な姿勢の一つであるとも言えるのかも知れませんが、「現実以上の現実」を其処に求めた「ドイツ表現主義」の発想は、言い方をすれば、もっと科学的でスマートなものであったはず、この映画に現れるある種の「異常さ」は、其処で扱われることの多かった「恐怖映画」からの至って安易な連想であるに過ぎないのではないかとさえ疑いたくなります。映画の中でムルナウに「カメラに捉えられない限り、それは存在しないも同然」といった感じの尤もらしい台詞を吐かせているのですが、其処に存在しないもの、あるいは存在する以上の何かを捉えるのもまた「映画」であり、それはともすれば「現実主義の履違え」の指摘すら許してしまう発言です。単純な話、本物の吸血鬼を使って「恐怖」を演出する監督と、それと同様の「恐怖」を俳優の演技や演出によって捏造する監督を比べれば、後者の方があらゆる意味に於いて優れているのなど言うまでもないことなのです。否、勿論、この映画は単なるフィクションであり、映画史的な事実を云々するほどの野暮もないとは思うのですが、しかし、この映画をして特定の何かに対する「オマージュ」などと言い切ってしまうことには、やはりどうしても異論を差し挟みたくなってしまうのです。この映画の見処の一つがウィレム・デフォーの「演技」であるというのが、何よりもの「皮肉」(あるいは確信犯的な「自虐」)ではないでしょうか?

 所謂「メタ映画」の中でも過去に実在した映画監督や映画作品を対象としているという点で、クリント・イーストウッドの『ホワイトハンター、ブラックハート』を想起するのですが、映画(中映画)の撮影が漸くと開始されるのと時を同じくして映画が終わってしまうイーストウッドのそれに対して、撮影の終りが即ち映画の終りでもあるこれは、ある意味非常に真面目で健全な(例えば、トリュフォーのそれがそうであるように)メタ映画であるとも、故に、其処に現れる「歪み」はどれほどのものでもなくて、「逸脱」はそれがあくまでも「フィクション」である故の「過剰」の変種に過ぎません。優劣の話ではなく、映画の「性質の違い」の話。

 公開初日、土曜日の午後、狭くてスクリーンが小さくて傾斜も緩い「シネアミューズ」は満席に近い混雑ぶりでした。こんなに混雑しているときにこの劇場に入ったことなど今までにはなくて、小さな劇場での常で普段は前から数列目で観るところが、今回は最後列で観るハメに、スクリーンが小さいのは我慢するにしても、姿勢の悪い私には前の人の頭が邪魔になって(それを回避するために終始背筋を伸ばしていた故に)とにかく疲れてしまいました。なるべくなら行きたくない劇場ですね。


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