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コレリ大尉のマンドリン
監督:ジョン・マッデン
2001年9月23日(新宿ピカデリー1)

 大いなる幻影



 その昔、アルベルト・モラヴィアの『1930年』という小説を読んで、戦中に於けるイタリア国民衆の「無節操ぶり」に非常に驚いた記憶があります。戦況が有利な時はおよそ盲目的にムッソリーニを崇め、しかし、戦況が少しでも悪くなると「そのうち連合軍が助けにきてくれる」と平気で口にする、最後の最後まで在りもしない「何か」を信じて疑わなかった(らしい)日本国民衆の末裔としては、その不真面目な「楽天性」を羨ましくさえ感じました。ドイツはアドルフ・ヒトラーに、日本は「A級戦犯」に、戦争責任のすべてを一部の人間に押し付けることによって国民レベルでの「責任」を回避しようとする風潮には甚だ疑問を感じるのですが、イタリアの場合は「ムッソリーニとファシスト党が悪い」で済ませても案外通用してしまうのではないかと、無節操なりにも決して主体性を見失うことがなかった(あるいは「無節操」という主体性を最後まで貫いた)のは、(皮肉ではなく)十分に褒められることです。些か善良なものとして描かれ過ぎている感は否めませんが、この映画を観ても、やはり戦中に於けるイタリア人の楽天性、不真面目さがよく判ります。それとは対照的な「真面目さ」を有しているという意味に於いては、互いの立場を異にするギリシア国民衆もドイツ将校も同じで、戦争の悲劇を加速させたのがこの「真面目さ」であったのならば、中東方面がキナ臭い昨今、此処に於いて強調されるイタリア兵の「不真面目さ」に学ぶべきも大いにあるのではないかと、縱い「平和ボケ」と揶揄されようとも、「思考停止」が平和への(最も容易な)手段の一つであることは疑いようのない事実なのです。

 この映画は「豆」の大写しから始まります。その豆はある人物の耳から取り出されたもので、子供の頃から聴覚障害を疑っていたその人物は、正常な聴覚を取り戻して大いに喜びます。聴覚を妨げていた障害物が取り除かれることによって始まるこの物語が、それに続く状況として音(音楽)に象徴される人物(即ちコレリ大尉)を場面に連れてくるのは勿論偶然などではなくて、この物語が「聴覚」あるいは「音」に関するものであるという表明の一種に他なりません。遊戯的に不発弾を爆発させたコレリ大尉が一時的に失ってしまうのが身体の他の部位ではなく聴覚であるというのもそう、行き過ぎた遊戯の代償もまた「音(の不在)」によって贖われるのです。但し、此処に於ける「音」が、例えば、発話された言語のような、明確な意味を伴うものを指すわけでもないのは、「文盲の恋人に宛てた手紙」のエピソードからも容易に知れることで、むしろ容易に「意味」に還元し得る何かの限界を指摘しているとも、オペラを愛する善良なコレリ大尉とて、ヴェルディとワグナーが有する「意味」の違いを前にしては、甚だ狭量な人物とならざるを得ないのです。此処に於いてラジオから流れる「意味を伴う音」が、刻々と悪化する戦況を伝達するための、(観客を含めて)それを聴く者の不安を煽り立てる装置でしかないのもまた象徴的と言えます。

 正常な聴覚を取り戻した者と片時もマンドリンを抛さなかった者の間に成立し、教養のある女性と教養に足りない男性の間に成立しなかったもの、此処で言う「意思疎通」とは即ちそれ、音楽に「意味」がないとは言わないにせよ、人間を「意味」から解放するのもまた音楽であり、その意味に於いて「メッセージソング」の類など、「意味」の押し付けが新たな対立を生むことはあっても、既に在る対立を収め得るべく有効に機能するとは到底思えません。此処に於いて一時的にも実現される平安は、「意味」の共有によって生じるのではなく、「意味から解放された状態」の共有によって、音楽がその果たすべきを全うしているわけです。また、「意味を伴う音=言語」ということで言えば、そもそもこの映画に於いてはイタリア人とギリシア人の間に本来あるはずの「壁」を如何にも映画的に取り除かれてしまっているわけで(単に「マーケット」に関わる問題に過ぎないのでしょうが)、そのことが此処に於ける「意味」の往来を容易にし、結果として「意味を伴わない音」の存在を際立たせることにもなっているのです。つまり、此処にあるのは「言葉は通じなくとも音楽でなら通じ合える、音楽は世界の共通語」などという在り来たりで退屈極まりないそれではなく、「言葉が通じる、意味が伝達されてしまう故の悲劇」と「意味から解放される平安」なのです。コレリ大尉がその恋愛感情を美しいメロディーに託してマンドリンを奏で、その場に居合わせた国籍を問わずの人達がそれに静かに耳を傾けるという場面があるのですが、しかし、彼がその曲の「意味」を口に出した途端、ペラギアはその場から逃げ去り、場面の「平安」が乱されることになるのです。ありふれた「愛の告白」の一場面に過ぎないのですが、しかし、極端なことを言えば、其処に起こった無邪気な出来事と「世界を巻き込んだ悲劇」の構造は全く同じ、誰しもが「無意味」に堕している限り、確かに、恋愛が成就することもありませんが、しかし、戦争が起こることもまたあり得ないのです。「思考停止」とは即ちそれ、勿論、思考停止に堕している限り、恋愛はおろか、人類としての進歩すらまるで望めないわけですから、そのような理屈など所詮は「理想にすらならない理想論」の類なのですが、しかし、それはまた同時に「戦争のない世の中など大いなる幻影に過ぎない」という現実を裏付けることにもなるのです。この恐るべきペシミズムを回避するヒントがこの映画の中に隠されているとすれば、あのギリシア人の正常な聴覚を妨げていたのが、何てことのない「豆」に過ぎなかったという、それなのかも知れません。

 公開二日目の日曜日の夕方、三連休とあって何処ゾに行楽に出掛けている人が余程多いのか、千人の劇場は無惨なほどガラガラの状態、決して悪い映画でないだけに残念な話です。それにしても、あの膨大な量の予告編は何とかならないものでしょうか? 余りにも長かったので本編が始まる前に時計を確認したら、予告編だけで30分、本編の4分の1にも及ぶ時間を本編とはまるで無関係なものに費やすのなど余りにも莫迦げています。せめて10分以内で片付けて下さいヨ。
 この映画の監督は数年前のオスカーで「作品賞や脚本賞は取れても監督賞が取れないのは道理」などと一部に於いて酷評されたジョン・マッデンなのですが、この映画を観ればその評価が不当だったことが判ります。少なくとも「オスカー」なら、ヒヨイと貰ってしまっても何の不思議もありません。


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