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愛のエチュード
監督:マルレーン・ゴリス
2001年9月24日(銀座テアトルシネマ)

 人生の比喩に非ず



 伝統的日本文化の規制を目論んでいたGHQに「将棋」に付いての説明を求められた升田幸三が「将棋は一旦取った相手の駒を自陣の戦力としてまた使うことができる。チェスのように取りっぱなしの飼い殺しではなく、日本人は縱い敵将といえども相手の力量を認めて云々」と、チェスとの比較でGHQの鼻を明かしたというのは有名な話です。その話の何処までが事実で、お陰で戦後の日本から将棋が姿を消すことがなかった、のかどうかは知らないのですが、何れにせよ、起源を同じくするそれらがシルクロードを経て西と東へ、辿り着いた地の文化を吸収して「チェス」と「将棋」になったわけで、それらの幾つかの違いのうち最も顕著な、升田幸三も指摘したそれが何らか東西両文化の差異に根付いたものであるのは間違いのないところなのでしょう。

 さて、この際「文化」などという面倒な話はさておくとして、映画的な素材として、およそ「視覚」の対象として両者を比較してみると、残念ながら、チェスの方が明らかに優位にあるように思われます。チェスの方が駒の形状がより立体的で、形状はどれも同じでサイズだけが微妙に異なる将棋のそれとは違って、チェスの駒の形状はその役割に応じて様々、また、そもそも将棋の駒は「言語」によってその機能、役割が説明されているに過ぎないわけで、その意味が純粋に記号化されているチェスの方がより視覚に訴える(つまり「分かり易い」ということ)のも当然のことなのです。相対する両陣にしても、駒の向きが違うだけの将棋に対して、チェスの場合は「黒と白」に分かれるというこれ以上ない分かり易さ、駒の尖った先を常に相手に向けている将棋が何となく「攻撃的」に見えるにせよ、視覚の対象としての優位を得るには到底至りません。そして、其処に「時間」の要素を加味すると、チェスはますます優位に、決して時間の流れに逆らうことなく盤上の駒数を単純に減らしていくチェスと、(升田幸三が自慢したように)時としてそれに抗ってしまう将棋を比べれば、ゲームとしての奥深さとはまるで無関係に、視覚の対象としての面白さ、(単純である故の)迫力の点に於いて、利は明らかに前者にあります。将棋にせよチェスにせよ、十分にルールを理解した人達が対局の最初から最後までを観戦する分には「視覚の対象」であることに殊更拘る必要など何処にもないのですが、しかし、映画に於けるそれらは、あくまでも視覚の対象、目に映るおよそ無意味な記号でしかなく、何故なら、何一つの「省略」もなく盤面の思考が再現されることなどあり得ない故、其処に展開しているのであろう「意味」を理解するに於いて、「映画」という媒体には足りないものが多過ぎるのです。例えば、阪本順治の『王手』という映画が、もし仮に其処に展開される人間関係すら何となく「平板」な印象を受けてしまとするならば、それは其処に目撃されるものの平板さと決して無関係ではないのです。

 それでも、対局の場面に於いてひたすら盤面を捉えていたのでは些か面白みに欠けてもしまいますから、カメラは盤面を捉えるのと同時に対局する両者の表情と動作を、この映画の場合、特に印象的だったのはチェスクロックを「叩く」という動作、対局の緊迫感を演出するに非常に効果的でした。また、盤上に於ける映像表現特有の視覚効果として、駒の動きを忙しない「早送り」で見せることによって対局者の思考を其処に再現するという使い古された手法が用いられていたのですが、しかし、羽生善治の話など参照すると、そのような表現は必ずしも「天才」の思考を正しく再現しているわけでもないようで、彼の話によると、例えば20手先の手を読む場合、映像が表現するような思考の「早送り」を経由するのではなく、いきなり20手先の局面が一個の映像として頭に浮かんでしまうのだとか、つまり、素早く「考える」のではなく、予知能力者の如くに「見えてしまう」わけです。何れにせよ、将棋であれチェスであれ、対局者として盤を睨む人間の視線の先にあるのは、今現在其処に見えている状態などではなく、言わば遠からずの未来、予見し得る未来の程度に差異こそあれ、それは、例えば、私のような素人とて同じこと、第三者によって目撃される、スクリーンに切り取られた盤面の無意味、正しい意味を伴わない記号性の所以は其処にも、実際に盤に向き合う人間とそれをスクリーン越しに観る人間ではそもそも見ているものが違う、観客が見ているものは正しく観客にしか見えていない、観客のためにのみ存在するのです。もっと分かり易い話で言えば、ある程度以上の棋力を有する人間同士が対局する場合、それを成立させるためには必ずしも盤駒など必要とせず、つまり、其処に視覚など不要(実際、この映画の中でルージンが目隠しをして対局しているように)、その場合、盤駒、即ち視覚に働き掛ける存在は専ら第三者の思考を手助けするために、其処に「見えるもの」は観客に対して現在の「状態」を分かり易く伝達するための記号に過ぎず、決してそれ以上のものでなどあり得ないのです。故に、決して目に見えない「それ以上のもの」は、例えば「早送り」のような、およそ非現実的な映像表現を借りて再現されることになる、そうするより他にないのです。

 何とも分かり易い「天才」の記号を身に纏ったルージンと彼を巡る「善悪」の物語、簡単に言えばそんなところです。この物語が案外良心的なのは、純粋無垢な存在を決して善とは捉えていない故、彼が何かと対峙することなど決してなく、対峙するのはあくまでもナターリア(露骨な「クイーン」の比喩)とヴァレンチノフの両者、その意味に於いてこの物語の結論は実に妥当、ルージンは決して「勝者」ではありません。此処に於ける単純明快な対立の構図と鮮やかな逆転の終盤は、他でもないチェスの比喩なのだと思うのですが、しかし、物語にチェスを持ち込む肝心の存在はそれに関わるでもなく、ひとすら「空白」の中で記号列と格闘するのみ、優れた棋譜が「芸術」に属するものであるなら、人生の比喩を易々と引き受けてしまうそれなど御世辞にも出来の良い棋譜とは、天才を巡る縁側将棋、凡庸さはひたすらに醜悪です。

 公開から既に何週か経っている祭日の午後、やはり三連休に映画など観ている場合でもないのか、ガラガラでした。それにしてもしかし、数カ月前に予告編を観ていたときから思っていたのですが、有名な旧作と混同しそうなこの紛らわしい邦題は勘弁してもらいたいところ、ナンでもカンでも安易に「愛」だの「恋」だのと付けたがるイカれた神経を先ず以て疑ってしまうのですが、それに加えてさらに、です。たかが邦題、されど邦題、無神経な連中にも困ったものです。
 ナボコフの原作と言えば、二度映画化されている『ロリータ』が有名ですが、余りにも素晴らしい原作小説と比較してしまうと、ナボコフ自身が制作に関わったキューブリックのそれですら今一つな感じ、個人的には『マーシェンカ』が(原作との比較で)そこそこ無難な出来だったのではないかと思っています。この映画に関しては、原作小説を読んでいないのでよく分かりません。


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