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トゥームレイダー
監督:サイモン・ウエスト
2001年10月8日(新宿プラザ)

 有限の正義



 ヒーローであれヒロインであれ、絶対的な「正義」を振り翳して邪悪に挑む存在というのは、勿論、その揺るぎのない「正義」を拠所として時には非合法的な行為(例えば、殺人)をも正当化してしまうのですが、しかし、物語自体をそれなりに「正当化」するにはその無邪気な「正義」だけでは決して十分とは言えません。それは、大抵の良識ある人達が「無限の正義」などという大層な作戦名を「眉唾」と感じてしまうように、この世の中に絶対的な「正義」などあり得ないと誰しもが知っている故、如何な娯楽映画と雖もその事実を等閑にはできないのです。「正義」という相対的にして曖昧な概念はあくまでもある行為の「結果」に対する解釈の一種であり、従って、例えば「正義のために」と、それ自体が恰も「目的」であるかのように振る舞うのなど「まやかし」以外の何ものでもなくて、「無限の正義」と「聖戦」が砂塵を撒き散らすそれが甚だしくも不毛なのも道理なのです(件の作戦名、後に「不朽の自由」に変更されていますが、これもまた滑稽千万と言うか)。
 それはともかく、スクリーンを駆け抜けるヒーロー(ヒロイン)の一見して荒唐無稽にも見える正義にも、大抵の場合それなりの理由、その正義を裏付ける「何か」が在るわけで、その「正義」ほど相対的でも曖昧でもない何かが在るからこそ、彼らの行為が結果として正義と解釈され、さらには物語それ自体が正当化されるのです。ジェームス・ボンドの場合なら、それは愛国心、女王陛下への忠誠心が彼の行為を促し、彼が正義であればあるほどにも邪悪に堕して往く存在との対峙が其処に生まれるのです。
 では、ララ・クロフトの正義を裏付けているものが何かと言えば、それは「父親への思慕」に他なりません。確かに、ある種の「力」をおよそ私利私欲のために用いようとする「反=人類的」存在を絶対的邪悪と仮定して、それと対峙するララ・クロフトを絶対的正義に見立てるというのも決して悪くはないのですが、しかし、「先ず邪悪ありき」ではヒロインとしての資質が疑われても仕方のないところ、例えば、正体不明の「憎悪」に突き動かされるハリー・キャラハン刑事なら、縱いこの世の中の悪党を一人残らず始末したとしても、相変わらず「ダーティー・ハリー」であり続けるのであろうと予感させるそれこそが物語を正当化するのであり、ララ・クロフトの物語なら、それはやはり「父親への思慕」という、「絶対的」とは言わないにしても、それを端から否定するには相当の覚悟を要する極く人間的な感情がララ・クロフトという一個の虚構とその物語を正当化しているのです。其処に「父親への思慕」があって初めて正邪の色分けが有効となるわけで、その意味に於いて、彼女の「正義」など、やはり、あくまでも結果として現われる或る事象に対する解釈の一つに過ぎないと言えるのです。

 余談になりますが、『チャーリーズ・エンジェル』という、超人的女性3人を主人公とした映画に於いても、やはり、この「父親への思慕」に似た感情が物語を正当化しています。実の父親ではなく父親代わりの人物に対する同様の感情が行為を促すその物語に於いては、彼女等と対峙する存在もまたその同じ人物に対する丁度正反対の感情に促されているという点で非常に分かり易く、正邪の色分けも容易、悪く言えば「薄っぺらい」のですが、しかし、「薄っぺらい」ものを2枚重ねて何となく厚く見せようなどという卑しさがない分、むしろ好感が持てます。否、それはともかく、此処に於いて肝要なのは超人的ヒロインとその行為を正当化する「ある種の感情」に関する件、この類のヒロインが多く現れる現象をして女性の社会的地位を云々する向きもあるようですが、しかし、彼女らの行為を促すのが「父親への思慕」というおよそ原初的(古典的)な感情でしかないというのは、フェミニストにとってはまだまだ楽観できない状況が続いている証左に他ならず、例えば、極く在り来たりな恋愛感情の類に促された行為にヒーローはあり得てもヒロインはあり得ない、あるいは今どきの退屈なヒーローにありがちな「××を守るため」というそれにしても、ヒロインではまだまだ違和感があます。勿論、それ以前の問題として、この類のヒロインなど、所詮は「男性」のある種の願望が生み出したに幻影に過ぎないとも言えるのですが。

 閑話休題。この些か露骨な正義の重層構造はこの物語を不自然なものにもしており、例えば、もし仮に正義こそが彼女の一連の行為の「目的」であるならば、彼女が二つの「欠片」のうちの一個を獲得した時点で既に十分な正義は果たされているわけで、しかし、それにも関わらず、その時点に於いて物語が漸くその半分を消化したに過ぎないというそれは、ある種の「破綻」と見做されても致し方のない事態です。この広い世の中にはその無様にも継続されてしまう物語をして「ドラマに厚みが増した」などと迂闊にも評してしまう阿房もいるのかも知れませんが、否、そんな「間違い」など今さら指摘するまでもないことでしょう。勿論、そうであること自体が悪いのではなくて、要はその構造と物語の関わり方の問題、その次第によって痛快なアクション娯楽にもなれば、退屈なメロドラマにも、この映画に限った話でもないある種の「退屈さ」は、例えば「父親への思慕」などという、誰にも否定できない故にむしろ品性下劣とさえ評し得るそれを、およそ物語の外から連れてきて、揚げ句の果てにはその破綻をさえ招いてしまうという其処に、本末転倒と言うべきか卑屈と言うべきか。

 さて、肝心の「アクション」なのですが、冒頭のシークエンスがそうであるようなCGと人間(ララ・クロフト)の格闘の場面はそこそこ愉しめるにも関わらず、それが人間同士となると途端に目を覆いたくなってしまうのは、やはり「演出」の技量に関わる問題なのでしょう。また、この映画の見せ場の殆どが「逃げる場面」にあるというのが何かを象徴しているようでもあり、当面の問題がすべて解決した後に訪れるその状況、即ちヒロインが正義を行使するという一連の物語と直接的に関わるわけでもない(にも関わらず重要な見せ場の一つとなっている)その場面をして「御里が知れる」と、否、決して言い過ぎではないでしょう。

 公開三日目、祭日の午後、別の映画を観るつもりで歌舞伎町を通り抜ける途中、ついフラフラと入ってしまいました。広い劇場ですがさすがに混雑、ほぼ満席でした。予告編で観たメロドラマのアンジェリーナ・ジョリーにはつい噴き出しそうになってしまいましたが、こういうアクション映画のヒロイン役は悪くありませんね。リブ・タイラーにしてもそうですが、ああいう口の大きな女性というのは、確かに「性的」ではあるのですが、やはり直接的な何かを連想してしまうのか、何となく下品な感じがして余りメロドラマ向きとは思えません。勿論、私の個人的な趣味のお話。


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