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オー・ブラザー!
監督:ジョエル・コーエン
2001年10月20日(銀座テアトルシネマ)

 視座への過剰期待



 矢鱈と大仰なカメラワークが目立つコメディー映画、情況を弁えない些か勘違いな技巧派、その昔、コーエン兄弟の『赤ちゃん泥棒』を観た当時の個人的な印象です。勿論、其処に在る情況とそれを捉える視座のアンバランスが、さらにもう一つ別の視座に於いてある種の効果を生む、この場合なら「より滑稽に見せる」というその理屈は十分に理解していたのですが、如何せん技巧が先に立ち過ぎているという印象、そもそも「映画」というのは舞台演劇の類とは違って、ある特定の視座を観客に強要するものであり、その「特定の視座」とは紛れもく一つの意志、つまり、其処に在る情況はその「意志」を媒介として第三者即ち観客に伝達されるわけで、否、そんなことなど、あらゆる映像表現に於いて今さら当たり前の話に過ぎないのですが、しかし、コーエン兄弟のそれの場合「フレーム」の意味が過大であるとでも言うべきか、視る者と視られる者の関係がそれこそアンバランス(アンフェア)で、俳優の(自立した)演技より何よりも媒体としての視線、映画に於いてはもう少し控目であっても誰も文句を言わないはずのそれが余りにも勝ち過ぎて、それら両者の関係をそのさらに外側から目撃することになる観客の立場からすれば、取り分け後者の物腰が実に「暑苦しい」のです。それは『ブラッドシンプル』のようなサスペンス映画の類でもやはり同様なのですが、しかし、その場合は、物語の性質上、情況と「意志」の利害が一致することが殆どですから、むしろ両者の対峙が意味を増幅させる(コーエン兄弟流の)コメディー映画ほどの煩わしさを感じることはありません。

 さて、ステディーカムが突進する『赤ちゃん泥棒』と比べれば、随分と「暑苦しさ」も軽減されたこの映画、それでも、まだまだ「らしさ」は健在です。例えば、人物のバストショットからスッとズームアップしてクロースアップになるそれ、その同様のショットが何度となく用いられているのですが、それがどのような情況で用いられているのかと言えば、およそ当該人物が遠くにある(あるいは本来気が付き難い)何かに突然気が付いて驚くような場面、要はその人物の「気が付いた」と「驚いた」が、その人物のみを捉えたカメラの動作によって説明されているわけで、嘗てニコラス・ケイジに向かって突進したステディーカムのそれの「縮小版」のような感じです。勿論、例えば、ヒチコックが導入して(多分)トリュフォーが好んで真似をしていた「三段ズームアップ」なども同じようなもので、その手法自体は別に珍しくもないのですが、コーエン兄弟の場合、それを同じ映画の中で比較的多用するのと(トリュフォーもヒチコックも一本につき一回という程度のはずです)、既述の通り、本来サスペンス映画の類に用いられることの多い手法を確信犯的にコメディー映画に持ち込んでいること、あるいはそれが効果として「必要以上」であること等々をして、それ自体は然して珍しくもないはずの手法が一々目に付いてしまうのです。同様の情況を説明する場合、例えば、むしろその人物が目撃した対象の方を(その人物の視線を借りて)ズームアップするという方法も十分に有効だと思うのですが、しかし、そのような在り来たりな動作は好まず、あくまでも一個の自立した主体としてカメラとその視座を確保し、その「意志」のままに観客を操ろうとする(迂闊に操られたしない捻くれた観客はスクリーンに二つの「意志」を発見して暑苦しく感じるわけです)、随分と控目になったとは言え、そんなところにもやはり「らしさ」は健在なのです。

 そういったことは、まるで無駄のない、一般に「非常に良く出来た」と評される脚本にも言えるわけで、否、巧妙に張り巡らされた伏線や矛盾のない物語が悪かろうはずもないのですが、しかし、余りにもきっちりとし過ぎている故にむしろ余裕の無ささえ感じてしまうそれは(「蓋付きの机」にまで意味があったのには驚きました)、やはり『ブラッドシンプル』のようなサスペンス映画に於いては然程の違和感はなくとも、コメディー映画の類では、ディテールの巧妙さばかりが目に付いて、全体の大きな流れの中にそれらが在るというより、それらの繋ぎ合わせよって一個の物語が構築されているふうにも感じてしまい、あるいは物事の発想の順序を疑いたくもなってしまいます。余り好ましい比較とは言えませんが、サスペンス映画にさえ「マクガフィン」という大いなる「無駄」を持ち込んだヒチコックのそれなどと比べると、コメディー映画でありながら、何となく「愛嬌」に足りないような気さえしてきます(ロバート・ジョンソンもどきの黒人青年を拾う「十字路」が何となく歪んでいるのは素晴らしい「愛嬌」だと思います)。否、十分に愉しめるのですが。

 総じて、デジタル処理によって操作された全体の色調をその最たるものとして、およそ人為の際立った些か不自然な映画、と、軽々に断じてしまうのが余り賢明な態度でもないのは、「映画」などそもそもが人為的にして不自然極まりないものである故、此処に在るのはその些か過剰な露出に過ぎないのです。無闇矢鱈と手持ちカメラを振り回し、二、三行しか書かれていない脚本を俳優の「自然」な演技とアドリブが埋めてしまうその怠惰な偶然をして「リアリスム」などと称してしまう厚顔に比べれば、此処に於ける良質ながらも些か過剰な人為、所詮は媒体に過ぎない「視座」への煩わしいほどの過剰期待は、彼らの「映画」に対するそれと同じくらいにも愛おしいものです。そしてさらに言えば、彼らの過剰がある種の懐古趣味に行き着いてしまうのも実は道理で、何故ならデフォルメし得る「何か」の所在など、もはや過去形でしか論じ得ないからです。

 公開初日の土曜日の午後、コーエン兄弟とジョージ・クルーニー(あるいはジョン・タトゥーロ)の人気と知名度が世間的にどの程度のものなのかはよく知らないのですが、都内では二館のみの上映とあってさすがに混雑、通路を埋める「座り見」の列は明らかに消防法違反でしたね。
 ところで、本来「ヤンキー」であるコーエン兄弟の「南部好き」の理由はよく知らないのですが、ロバート・アルトマンのそれなどと比べると、アレコレ南部的な要素を抛り込んではいるものの、しかし、やはり何となく嘘臭い感じが、所詮は「南部好きの(余所者による)南部映画」に過ぎない、と、「ヤンキー」どころか単なるニッポン人に過ぎない私が不遜にもそう評したくなってしまうところが映画一般の愉しいところと言うか。


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