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おいしい生活
監督:ウディ・アレン
2001年10月21日(恵比寿ガーデンシマ1)

 コペルニクス的転回



 此処のところ二日に一本(枚)の割でDVDソフトを購入している所為で、財布の中身が随分と寂しくなっている、という情けない話はともかくとして、私がどういう基準で購入するソフト(映画)を選んでいるのかと言えば、それは「所有したい映画」という、必ずしも「好きな映画」に一致するわけでもないそれです。「好きな映画」と一体何処が違うのか、という話に言及していては徒に文章を弛緩させるだけですから、此処では割愛しますが、個人的な考え方として、DVDというのは「所有のためのメディア」であると、レンタルが主体でむしろ一過性の「体験」を得るためのメディアである、その意味に於いて映画館に於けるそれに類似しているとは言え、しかし、それとは比べものにならないくらい貧しい体験をしか提供し得ない「ビデオ」とは一線を画するものであると思っています。その理由や近い将来の可能性にまで言及していてはやはり本題が遥かに遠くなってしまいますから、相変わらず割愛するのですが、何れにせよ、その作品に対してある種の感情を抱いていることが動機となるわけですから、私が購入するのは当然ながら「既に観ている作品」に限られてくるわけで、また、購入したからといって直ぐに観るわけでもないという、乏しい財布の紐を解くのは、あくまでも「所有」の欲求であると、私の些か歪んだ経済活動の話。

 さて、大仰な前振りの割に、その本題は「先日『ヒズ・ガール・フライデー』のDVDを購入した」というそれでしかないのですが、そのハワード・ホークスの名作を改めて観直してみて(漸く)気が付いたのは、あの早口の「掛け合い」の語尾が、多くの場合微妙に重なっているということ、つまり、Aが台詞を最後まで言い切らないうちにBがそれに応じた台詞を既に発し始めているという、実に映画的(演劇的)演出がなされているということです。それが映画的即ち「非現実的」なのは、勿論、実際の会話ではそんなことなど先ずあり得ない故、予め相手の言葉(台詞)が分かっているからこその離れ業です。何れにせよ、その微妙な語尾の重なりが、ますますその会話の(印象としての)速度を加速させ、テンポを良くしていることは間違いありません。以前、『ギター弾きの恋』に関する文章で「ウディ・アレンの映画には(対話の場面に於ける)『切り返し』がない」と書いたのですが、それは『ヒズ・ガール・フライデー』に於いても同様、一般的な「切り返し」が台詞と台詞の「間」を利用していることをすれば、それも道理、「間」などそもそも存在しないのですから「切り返し」など出来るはずもないのです。

 さて、そんなことを念頭にこの『おいしい生活』を観たのですが、ウディ・アレンの他の作品同様「切り返し」の存在しないこの映画には、案の定、台詞の末尾が微妙に重なる部分が少なからずありました。帰宅後、買うだけ買ってまだ観ていなかった『ハンナとその姉妹』を慌てて観たのですが、それもやはり同様、今頃気付いたのか、という指摘は甘んじて受けるとして、取り敢えず、その「事実」には痛く感動しました。無知蒙昧なる私には正にコペルニクス的転回、ウディ・アレンであれスクリューボール・コメディーであれ、良質な対話劇のテンポ、リズム感は「間合い」こそが生み出すと勝手に思い込んでいたのですが、それを完全に取り払ってしまうことによって物理的速度を最大限に加速させ且つリズムを損なわないという、否、それは決して「程度」の問題ではなくて、コンマ1秒でも「在る」のと全く「無い」のとでは「状態」がまるで違うわけで、では、あり得ないはずの「状態」に実際あり得ている以上、それを補完する何かが「在る」はず、と、しかし、それが何であるかを確信を持って此処に書くことは残念ながら(私には)能いません。あるいは、それが「演出」というものなのかも知れません。何れにせよ、舞台に於ける話芸の類とは違って、映画の場合、対話の間合いを計るのはそれほど難しいことではなくて、何故ならば、既述の「切り返し」等の「技術」を駆使すれば人間の技術に拠る必要すらない故、「間」を消滅させ「切り返し」の余地さえ其処に残さないというのは、映画に於いて、ある意味非常にストイックな試み、誰にでも出来ることではありません。

 群像劇の手法を借りてシリアスとコミカルを大胆に融合させてみたり、あるいは黒白映像やコマ落とし、手持ちカメラを実験的且つ遊技的に導入していた頃と比べると最近のウディ・アレンは比較的オーソドックスな手法でコメディを作っているようです。彼自身が演じている役柄もいつものそれとは違って、案外普通、今さら『泥棒野郎』が引合いに出されたりもするようですが、しかし、映画全体としてみれば、単に(些か歪んだ)「知」と「無知」の立場が逆転しているだけで、其処に在るもの自体は近作と然して変わりません。嗤うべき「知」を彼自身が滑稽に演じると同時に周辺の「無知」をも嗤うのが旧来なら、彼自身が滑稽な「無知」の立場で「知」を嗤うのがこの映画、ステップが一つ省略されている分、確かにストレートにはなっていますが、しかし、何にせよ肝要なのは、「僕ほど観客を見限らない監督はいない」と彼自身が逆説的な(嫌みな)表現で言い切っているように、相変わらず「知」を大前提としていること、「知」があって初めて「無知」がある、当たり前の話と言えばそうですが、その意味に於いて、「知」と同様に「無知」もまた、ある種の場面に於いては余り歓迎されないという、そんなところではないでしょうか。

 公開二日目の日曜日の午後、直前に着いたのではさすがに入場を拒否されるいう程度の混雑、私が観た回を含めて各回満席だったようです。多分、ウディ・アレン監督にはある一定の固定客がいて、公開して間も無い時期はその固定客が殺到する関係で混雑するのではないかと、日が経つに連れ様子が寂しくなってくることはあっても、口コミで評判が広まってロングラン上映とか、そんなことにはおそらくならないのでしょう。私も勿論その固定客の一人です。
 余談ですが、本文中の「語尾の重なりを今さら発見した」という話、実はこれには明快な理由があって、私が今現在DVDを再生させている環境は字幕を上手く出せないという悲惨なもので、故に件の『ヒズ・ガール・フライデー』も字幕無しで観たのですが、つまり、文字を読まない分「音」がよく聞えたというのがそれ、改めて字幕の弊害を認識した次第です。駅前留学でもしようかしら。


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