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ピストルオペラ
監督:鈴木清順
2001年10月27日(テアトル新宿)

 不可解にして明快な



 如何なる媒体を介して伝達されるにせよ、生起した瞬間から既に言語であり、その何れの段階に於いてもそれ以外の何ものでもあり得ないのが「物語」というものであり、それは既に在るのではなく、あくまでも体験の結果として、体験したそれぞれによって創出されるに等しいもの、極端なことを言えば、その在り得る可能性は無限大なのです。

 この『ピストルオペラ』というのは、一般に、決して「分かり易い」類の映画ではないのだと思います。実際、私が観た際も、狐につままれたような顔付きで映画館を後にする人が少なからずいました。しかし、この映画が「よく分からない」という人でも、その物語を問うてみれば、案外スラスラと、それこそパンフレットに記載されているのと殆ど違わない内容を返してくるはず、あるいは逆に、映画を観ないでパンフレットに記載された物語だけを読めば、誰しもが今さら観るのも阿房らしいくらいに「分かり易い」映画だと思うに違いありません。此処に於いて肝要なのは「『映画』は分からないが『物語』はよく分かる」というそれ、「映画」が即ち「物語」ではないことなど今さら指摘するまでもないのですが、この場合が些か特異なのは、一般に「難解」と解されている映画の多くがそうであるように「非=言語」が「言語」を導き出す過程、装置それ自体が難解なのでは決してないということ、既述の通り、体験の結果として得るものは皆等しく同様で、しかも「正しい」のです。

 この映画の何が「分からない」のかはさておき、では、観客は何故この決して普通ではない映画の「物語」を容易に理解することができるのか、その理由の一つは極端に説明的な「台詞」にあります。とても説明的とは言えない「不真面目」な映像(とその連鎖)とは対照的に、此処に於ける台詞は愚直なまでにも「真面目」、何に対して真面目なのかと言えば、それは勿論「物語」に対して、例えば、その執拗な反復が(映像として)一見して奇異にも見えてしまう江角マキコと山口小夜子のシークエンス、取り分け説明的な台詞に溢れるそのシークエンスが反復されるのは、しかし、むしろ物語を分かり易く説明するためであり、言い方をすれば、先ずそのシークエンスで物語的なアドバンテージを獲得してから不真面目な(反=物語的な)逸脱を、そして、そのアドバンテージを使い切るとまた同様のシークエンスに戻ってアドバンテージを得るというその繰り返し、決して観客を路頭に迷わせないよう「配慮」されているとも言えます。やはり反復される江角マキコと平幹二朗のシークエンスも同様、また、それらのシークエンスに限らない些か不真面目な映像群にしても、しかし、実はどれほどの逸脱を果たしているわけでもなくて、それらの多くは、言わば「極端なジャンプカット」であるに過ぎず、否、勿論、それだけでも十分に不真面目な所作と言えるのですが、しかし、少なくとも無闇に時系列を乱したりすることはありませんし、それこそ紙芝居でも観ているつもりになれば、然程の違和感を覚えるものでもありません。あるいは、江角マキコと永瀬正敏の対決の場面、所謂それとは些か趣を異にしているとは言え、しかし、ある一定の空間内でそれぞれに妥当な武器を持って対峙するという、つまり、物語状況の説明に際して最低限の「節度」は守られているわけで、逸脱はあくまでもその枠内に於いて、彼らが如何に奇怪な動作を示そうとも、観客はその場面の意味まで見失うことはないのです。

 斯くして「物語を見失わない程度に不可解な映画」が出来上がるわけですが、勿論、例外がないわけではありません。例えば、江角マキコが唐突に発する些か時代錯誤な「決め台詞」がそれ、その「無意味」は、説明的即ち「有意」な台詞全般の中に於いて明らかに異質、観客はある種の気恥ずかしさを覚えると同時に、確かに、一瞬路頭に迷うことにもなります。あるいはそれは、余りにも真面目で退屈極なそれらに対するささやかな抵抗なのかも、何れにせよ、其処に一時的に表出する「断絶」であり「破綻」であり「逸脱」であるそれは、「物語」にとっては無意味でも「映画」にとっては有意であると、それは間違いのないところです。また、次第に「逸脱」が加速度を増すこの映画に於いては、最後の最後で、終には「説明」が追いつかなくなってしまう、既述の表現を借りれば、アドバンテージを使い果たした状態でクライマックスに雪崩れ込んでしまうのです。従って、迂闊な観客は其処に何かを見失ってしまうことにもなるわけで、それまでは主人公を含めたスクリーン上の人物の動作に対してどれほどの疑問も持たなかった観客が「何故?」と問うことに、平幹二朗の滑稽なクロースアップはそんな観客達の比喩、見透かされているのです。

 では、観客にとってこの映画の一体何が「分からない」のか、物語に対しては容易に理解が及ぶ以上、それは当然ながら物語の外にあるわけで、単純な引算を試みれば「容易に物語に取り込まれない目眩く映像群」がつまりはそれということになるのだと思うのですが、しかし、それらとて観客が生まれて初めて見るものでもないという意味に於いて、決して「分からない」対象ではなくて、あるとすれば、それらと物語の関係性であり、其処に恰も何かの関係性が存在するかのように指し示してみせる主体、つまり、鈴木清順が何故こんなふうに映画を撮るのか、それが「分からない」のです。

 さて、それを「分かる!」と断言してみたり、あるいは「これゾ清順テイスト!」と不明な言辞を弄してみたり、何にせよ「分からないもの」に対して様々に「解釈」を与えてみせるのが、所謂「映画評論家」という人種の役割なのだと思うのですが、差し当たって私はそんな卑しい職業に従事しているわけでもないので、解釈論になど然したる興味もなくて(勿論、私なりの解釈は持ち合わせていますが)、あるとすれば、それが「物語を見失わない程度に不可解な映画」であるという「事実」に対して、仮に此処に於ける映像群が美学的に優れたものであるにしても、映画全体として、しかし、それはある意味、非常に無様な状態でもあるわけで、この映画が鈴木清順にとって実に十年ぶりの新作であるという事実と併せて、映画の外を蠢く「政治」の気配を何となく予感してみたり、私が此処に無手勝流を展開するのとはワケが違うということです、映画は。

 公開初日、土曜日の午後、私が観た一つ前の回に舞台挨拶があったようで、入れ違いで劇場を後にする人の数は凄かったのですが、しかし、私が観た回はそれほどでも、満席にすらなっていませんでした。
 そもそもが「情報に疎い」というのもあるのですが、私の場合、何であれ映画を観るに際しては殆ど予備知識を持たずに映画館に入ってしまうことが多くて、作品を選ぶ基準も何も、極端なことを言えば「やっている映画を観る」という状態なのですが、しかしそれでも、なるべくなら予備知識として持っていた方が良いと思っていることが二つあって、それは「上映時間」と「スクリーンサイズ」、前者は特に退屈な映画だった場合、最後まで健全な精神状態を維持するためにどうしても必要で、後者は座席の位置を決めるのに必要、例えば、渋谷のユーロスペースのように小さな箱で「アカデミーサイズ」ならば迷わず最前列に座りますし、所謂「シネスコサイズ」ならば、多少広めの劇場でも最後列に座るという具合です。『ピストルオペラ』を最後列で観てしまったのは、つまり、その程度の予備知識すら持ち合わせていなかったということで、否、別に、それで何が変わるというわけでもなくて、単に気分の問題に過ぎないのですが、ギギギとスクリーンを圧迫して往くカーテンを怨めしく眺めながら、「ある程度の予備知識ぐらいはやはり…」と反省頻りだったというお話。


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