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クローン
監督:ゲイリー・フレダー
2001年11月3日(新宿ジョイシネマ3)

 近未来都市の憂鬱



 アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』という、第一人称、即ち「私」を主語として書かれた推理小説があるのですが、その小説の奇抜な点は、他でもないその「私」がアクロイド氏を殺した真犯人であるということ、そして、それにも関わらず、読者がその事実を知るためには物語の最後、例の如く「灰色の脳細胞」によるタネ明かしを待たなくてはならないということにあります。「私」によって語られ構築されている物語から「肝心の事実」が欠落している、読者を真実から遠ざけているのが、あらゆる読書体験に於いて本来読者が最も信頼すべきその人物なのですから、騙されてしまうのも道理、一部に於いて「アンフェア」の誹りを受けてしまうのもあるいは致し方のないところなのかも知れません。例えば、ブライアン・デ・パルマの『スネーク・アイズ』という映画、冒頭からの十数分間が延々「ワンショット」で撮られていることで知られていますが、其処に於いては勿論、単に「技術」が試されているのではなくて、そうやって観客の視座を狭めることによって、その同じ時間内に起こっている物語的な「真実」を隠すという意図が、ニコラス・ケイジが真実を知らないのと同じように、観客もまたその真実から遠ざけられてしまうのです。あるいはアルフレッド・ヒチコックの『サイコ』、探偵が殺される「階段の場面」が俯瞰ショットによって撮られているのもまた同様で、老婆がアンソニー・パーキンスの変装に過ぎないという物語的な「真実」が其処に隠されているわけです。小説であれ映画であれ、斯様に何かを「隠す」ことが比較的容易にできてしまうのは、それが何者のものでもない特権的な視座を予め獲得し、観客なり読者なりに対して「何を見せて何を見せないか」の判断を自由に操ることができる故、その巧拙、如何に不自然なく「隠す」かが、その類の出来、不出来を決めると言っても間違いではないでしょう。『アクロイド殺し』が野心的なのは、その「特権的視座」が予め抛棄されている点に於いて、本来「隠される」べきが自らを「隠す」という大胆な試みが(読者に対して)果たして何処まで「誠実」であり得たのか、評価の分かれるところではないでしょうか。

 さて、他でもない主人公の素性を問うこの映画、限りなく「第一人称的表現」に近いとは言え、しかし、大抵の映画がそうであるように、決して第一人称によるものではありません。主人公が果たしてシロなのかクロなのか、此処に於ける特権的な視座、主人公の動作を終始至近にて捉えるというそれは、しかし、決して何を「隠す」わけでもなくて、自らの潔白を証明すべく奔走する主人公をおよそ「ありのまま」に捉え続けます。それでいてしかし、その物語的結論が(観客に対して)容易に知れてしまうわけでもないのは、如何な特権的であろうとも「視線」の如きがその真贋を見極めることなどそもそも不可能である故、此処に於けるそれはアンソニー・パーキンスの「老婆のカツラ」とは比べものにならないくらい「科学的」なのです。「視線」が何一つをも見出し得ない以上、それが映画的に何かを「隠す」ことも当然なくて、此処に於いて物語的な結論を(然るべき瞬間まで)隠し続けているものがあるとすれば、それはあくまでも物語それ自体、心臓の手前でスキャンが中断されてしまうというのなどが正にそうで、それは、言うまでもなく、この映画を退屈極まりないものにしている要因の一つでもあります。

 近未来の科学が映画的視座を掻い潜ってしまう故にある種の退屈さを余儀なくされてしまうこの映画に於いて、では、すべての視座が等しく無効であるかと言えば、実はそうではなくて、第一人称のそれ、即ち「主観ショット」のみが近未来の科学に抗い、視座としての役割を十全に果たしています。主人公の「真贋」を問うこの映画に於いて、その主人公自身の視座が「決定的証拠」となるのは言うまでもないこと、しかも、その「決定的証拠」を共有し得るのが唯一観客のみであるというその情況は正に映画的、もはや何をしても「隠す」より他ないのです。スローモーション、手ぶれ、フラッシュバック等々、矢鱈と大仰で対象をまともに捉えるつもりがないのではないかとも疑ってしまうそのお粗末なカメラワークにも、つまり、そうせざるを得ない十分な理由が存在しているということであり、また、その「理由」を上手く誤魔化すための物語的伏線も周到に用意されているという、この映画が何かに優れていることなど決してあり得ないのですが、しかし、観客に対するその「誠実さ」だけは心に留めておくべきなのかも知れません。

 あるいは大切な状況設定の幾つかを見落としてしまった故の単なる勘違いなのかも知れないのですが、この映画は最初から最後まですべての場面が何故か「夜」で、否、それはそれで別に構わないのですが、しかし、映像として表現されるその「夜」のイメージがどうにも、映画に於ける「夜」が現実のそれと比べて明るいのは、其処に動く人間を捉える必要から当然なのですが、しかし、終始あのブルーの光線に照らし出された「夜」は余りにも安っぽくて、非常に貧しい感じさえしてしまいます。

 公開二週目の土曜日の午後、私が参照した数週前の情報誌では新宿での上映館は二館となっていたのですが、実際には歌舞伎町の一館のみ、その一館にしても情報誌に掲載されていたそれとは少し違っていました。詳しい事情はよく分りませんが、とにかく当初予定していたようにはまるで客が入らなくて、公開二週目にして早々にも上映館を減らされた上、劇場自体も格下げに、と、おそらくはそんなところ、実際、その圧縮された環境に於いてすら観客は疎ら、「悲惨な状況」とは正にこのことを指すのではないでしょうか。尤も、映画それ自体も十分に「悲惨な出来」ですから、此処に於いては機能すべきが十全に機能しているとも、始まって30分くらいで急激な睡魔に襲われたのも、否、決して偶然などではないのでしょう。


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