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赤い橋の下のぬるい水
監督:今村昌平
2001年11月11日(シネマミラノ)

 奔る男の物語



 同じような動作、状況が反復される場合、その度ごとに「省略」が多くなっていくのは当たり前のことで、それは観客を飽きさせない配慮というより、観客が(反復の度に)学習してくれるお陰でそれが可能になる(故に省略する)と考えるのが妥当、この映画に於いてもある特異な状況と動作が物語的に何度も反復されるのですが、状況が些か特異である故に最初のうちはさすがに「説明的」なのですが、しかし、回を重ねるごとにやはり次第に省略が多くなり、最後には「排水溝に水が流れる」というワンカットのみになってしまいます。勿論、大抵の観客はそのワンカットを以て其処に在る(はずの)状況を十分に理解してしまうわけで、そんな映画的な「事実」に今さらながらに感心してしまうという話はさておくとして、この場合取り分け興味深いのは省略されて残ったもの、即ち「排水溝に水が流れる」というそれがそのまま其処に省略された状況のメタファーでもあるということ、つまり、そのワンカットによって十分な状況説明が為されているのみならず、その状況、場面が有する「温度」までも伝えているわけです。機能的且つ効果的、直接的な表現を避ける、即ち何かを「隠す」という動作が、しかし、より生々しくしかもより下品にその本来を表象し得てしまう、絶妙ではないでしょうか。

 その反復されるシークエンス、既述の通り「省略」が試みられているのは間違いがないのですが、しかし、その一連の動作に於いて、実は最後まで省略されずに執拗に反復される動作(カット)が一つだけあって、それは主人公が「奔る」というそれ、物語状況的には先ず女が合図を送り、それに応じて主人公が女の待つ家に駆け付けて漸く事に至るわけなのですが、主人公が女の家に向かって一目散に奔っているという、一見して無駄にも思われてしまうカットだけは、肝心のセックスの場面が省略されても、決して省略されることがなく、例えば、黒人ランナーを追い抜かせてみたり、その度ごとに小さな変化を付ける工夫まで為されているのです。何であれ「省略されるもの」と「省略されないもの」があったとしたならば、「省略されないもの」の方がより重要視されているのは言うまでもないことで、この場合も、つまりは「セックス」よりも「奔る」というそれの方が(スクリーンに映写される対象として)より重要視されているということに他ならず、あるいはその奇妙な「セックス」を何かに置換えることはできても、しかし「奔る」というそれを置換え得る何かは存在しない、それ自体が既に暗喩であり欲望であると、そんなふうな理解もあり得るのかも知れません。何れにせよ、彼が何故「奔る」のかと言えば、それは一刻も早くセックスがしたいからに他ならないわけで、そう考えてみると、何よりも主人公の「欲求」を其処に捉えることに重きが置かれたその一連のシークエンスは実に滑稽であり、また「排水溝を流れる水」のメタファーにも通じる下品さが、息を切らせる熱い欲望が「ぬるい水」となって零れ落ちる、何とも助兵衛なお話です。

 この映画で徹底されていることの一つはロングショットによる撮影で、例えば、いつも橋の上から釣糸を垂らしている三人組が果たして誰なのか、その特徴的な風貌のお陰でそのうちの一人がミッキー・カーチスであると何となく察しが付くという、要はそのくらい徹底されているということです。ロングショットを多用して比較的なフィルムを長く回すそれとクロースアップ等を多用してカット数を多くするそれの一般的な効果や演出の違い云々に関しては割愛するとして、此処に於いては何故ロングショットが多用されているのか、と、この映画を観ながらも終始そんなことを考えていたのですが、例えば、川べりに腰を下ろした主人公と黒人青年が会話をする場面、わざわざ川の対岸からのロング(のワンショット)で撮られているのですが、そうすることによって何らか実現されていることがあるとすれば、それは会話する二人を正面から捉え得ているということと、その二人の人間の(後ろではなく)前に川を配置することができているということです。其処にどのような意味があるのかはともかくとして、此処に於けるロングショットは対象との間に捏造された距離を利用して其処に何かを配置するためのもので、そういった意図が取り分け顕著で確信犯的であるとさえ思わせるのが、主人公と女が対話する室内の場面を狭いベランダから薄いガラス越しに捉えた一見して窮屈にも感じてしまうショットで、物語状況的にも「窓からの眺めが良い」とされているその部屋を景色が絶対に映らない角度、景色の側から捉えるというのはどう考えても不自然なのですが、しかし、そのショット、実はその美しい景色が窓ガラスに反射するそれを見事に捉えているのであり、つまり、室内で会話をする二人の手前に本来窓の外に見えるはずの景色が配置されているという些かトリッキーな構図が出来上がっているわけです。対象を遠くに捉え、その手前により大きな何かを配置する、焦点がずれて曖昧であるかのようで、しかし、本来の「所在」を正しく捉えているとも、溢れる「ぬるい水」の源流を発見するのです。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、全体の半分が漸く埋まっていた程度でしたがこれは十分に健闘の部類ではないでしょうか。中高年カップルと単身の若い男性が半々と言ったところ、後者は勿論シネフィル風です。ちなみに、この映画館はスクリーンと座席の角度が些かトリッキーで何処に座れば具合が良いのかいまだによく分かりません。
 監督の年齢を気にして映画を観ることなどこれまでは余りなかったのですが、今回この映画を観るに際して「今さら年寄の撮った映画など観ても…」と寸前まで行定勲の映画とどちらを観るか迷ったりしたのですが、実際これを観終わって、そういう発想に余り意味がないということがよく分かりました。


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