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バニラ・スカイ
監督:キャメロン・クロウ
2001年12月15日(新宿アカデミー)

 現実に体験された悪夢



 映画が現実を模倣しているわけでもないのは、現実に起こり得る何かがスクリーンに再現される場合、その一般的な表現方法が必ずしも「現実的」であるとは限らないことにも明らかで、例えば、自動車が何かに激しく衝突したり、あるいは崖から転落したり、そのような場合、映画では大抵派手な爆発を伴うのですが、しかし、現実の自動車事故に際してはそんな爆発など滅多に起こったりはしません。勿論、現実の自動車事故など滅多に目撃できるものでもありませんから「自動車事故を目撃する」という体験それ自体が既に映画の側にあるとも言えるのですが、何れにせよ、此処に於いて肝要なのは、大抵の常識ある観客が現実にはあんな派手な爆発など起こるはずもないと薄々感づいていながらも、しかし、その派手な爆発がなくては何となく違和感を覚えてしまう、むしろ「現実的ではない」とさえ感じてしまうということ、「現実を模倣する以上に現実らしい」とは正にこのことで、映画的表現とは、つまり(現実の)記号化の作業であるとも言えるのかも知れません。また、決して「現実的」ではないその派手な爆発と炎上が、単に視覚効果を高めるという意味ばかりではないのは言うまでもないことで、あるいはそれこそが「記号」である所以、其処には搭乗者の生存の可能性を完全に否定するという機能が備わっているわけで、単に崖から転落しただけでは「生きているのかも」と思ってしまうところを、爆発が生じることによって完全に否定、その「親切」はある種の「紛らわしさ」を排除し、観客に対して物語状況の速やかな理解を促すことにもなるわけです。もし、自動車が爆発炎上した、そういう場面を観客に見せたにも関わらず、その搭乗者が「実は生きていた」という物語があったとしたら、それは表現として明らかにアンフェア、ミカンを見せておきながら「実はリンゴだった」と言うようなものです。ちなみに、わざわざ爆発などさせなくても、単純に事故のカットに続けて破損した自動車の内部に転がる明らかに死体と知れるものを捉えておけば、それで十分に生存の可能性を否定できるわけで、実際、そのような方法が採られて場合も少なくないのですが(例えば、ゴダールの『軽蔑』とか)、その意味に於いて、つまり「爆発炎上」という如何にも映画的な現象は、取りも直さず自動車事故に於ける「死」の暗喩なのであり、その「非現実」は下品なようで実は非常に上品な表現なのです。あるいは、爆発炎上もしなければ、直接死体を見せるわけでもないに関わらず、しかし実際には搭乗者が死んでいるという映画もあって、クリント・イーストウッドの『トゥルー・クライム』などがそう、従って、実際にそれを観た人の多くが物語状況の理解という点で「不親切」な印象を受けてしまうのも道理なのですが、ただ、爆発炎上していないとは言え、しかし、フロント部分が完全に潰れているその事故状況を「現実」のそれに照らし合わせてみれば、其処に容易に「死」が知れるというのもまた事実で、あるいはむしろ「現実的」な表現であるとも、現実を忠実に模倣することが必ずしも「分かり易さ」をもたらすわけでもないという好例と言えるのでしょう。尤も、その映画がそのような、如何にも不親切な表現を用いたのにはそれなりの理由があると思うのですが、此処ではその話は割愛しておきます。そう言えば、爆発炎上しない自動車事故の場合、(死体もしくは気絶した人間がハンドルに凭れ掛かって)クラクションが鳴り続けるということが映画ではよくあるのですが、あれはあくまでも「映画的な現象」なのでしょうか? 何れにせよ、「爆発炎上」ほど分かり易くはありませんが、この場合の「鳴り続けるクラクション」もまた自動車事故に付随した「死」の暗喩となっているわけです。

 この『バニラ・スカイ』にも物語的に重要な意味を持ち、また視覚として非常に印象深い自動車事故の場面があるのですが、此処に於いては、しかし、件の「映画的な現象」は起こりません。安易に自動車が爆発したりしない分、観客にある種の「リアル」を錯覚させてもおかしくないくらいの迫力があって、確かに、その一連のシークエンスは非常に良く出来ているのですが、しかし、この場合、自動車が爆発炎上しないのは、そのようにより「現実的」な場面の創出が企図されたからと言うよりは、単に搭乗者の一人が生存しているという物語状況の必然から、其処に「死」を暗示させては矛盾が生じてしまうわけです。

 さて、そんな分かりきった話など実はどうでもよくて、この映画に於ける自動車が橋から落下する一連のシークエンスと「現実」あるいは「映画」を考えるに、例えば、激しい嫉妬なり何なりで精神を甚だしく錯乱させた女が、男を巻き添えに死を選択するという物語状況は、それなりに「現実的」で、実際にあってもおかしくない類の話だと思うのですが、その無理心中の方法、つまり自動車を橋から落下させるというそれは、しかし、とても「現実的」とは言えません。勿論、私のまるで知らない何処かでそのような出来事が頻発している可能性までは否定できませんが、しかし、少なくとも私が経験として理解する限りに於いてはそんなふうに心中する男女など皆無、例外があるとすれば、それもやはり映画の中の話、この『バニラ・スカイ』でのキャメロン・ディアスと殆ど同じことをしたのは、トリュフォーのそれに於けるジャンヌ・モロー(だけ)なのです。一見して「現実的」であるかのように見えて、しかし、実際にはまるで「非現実的」で、それこそ映画の中の出来事でしかないことがあるとすれば、この「無理心中を企図した自動車の橋からの落下」というのが正にそれ、そんな「現実」など実は誰かしらの「映画的記憶」の中にしか存在し得ないのです。その意味に於いて、この一連のシークエンスは、その描写が如何に「現実的」であったにしても(例えば「爆発炎上」しないことをして)、あくまでも虚構(映画)の側に属するものと言えるのです。

 ボブ・ディランの有名なアルバムジャケットなどが実際引用されているように、現実の記憶が虚構に投影されるというそれはこの映画の物語にも直接関わることなのですが、この映画それ自体もまた、既述の通り、やはり誰かの現実の記憶が其処に投影され成立しているという、あるいは、この物語にあるようなそれはあらゆる映画に当て嵌まるものと言えるのかも知れません。この映画に於ける「橋からの落下する自動車」は差詰め「キャメロン・クロウによって現実に体験された悪夢」と言ったところ、此処に於いて私が殊更そのシークエンスに拘るのは、勿論、トリュフォーのそれが私にとっても同様の悪夢であったからに他なりません。あの情死の不条理とジャンヌ・モローの不敵な笑みを記憶の底から葬り去るなど、そうそうできることではありません。

 尚、念のため補足しておけば、この映画のオリジナルであるアレハンドロ・アメナーバルの『オープン・ユア・アイズ』にも、当然ながら同様の物語状況があって、従って、トリュフォー云々と話を飛躍させる前にそのオリジナルとの関係の指摘すべきというのも確かにあるのですが、しかし、オリジナルに於けるやはり爆発炎上しない自動車事故のシークエンスには、少なくとも「落下」のイメージは皆無、それはこの映画の他のことにも言えるのですが、『バニラ・スカイ』が何らか踏襲していることがあれば、それこそ「物語状況」のみ、映像あるいはその連鎖として其処に在るのは、まるで別の現実(の投影)なのです。勿論、『オープン・ユア・アイズ』の自動車事故のシークエンスにトリュフォーを発見することなど決してありません。

 封切り一週間前の先行オールナイト上映、午前0時過ぎからの回だったにも関わらず劇場はほぼ満席でした。そう言えば、少し前に何かで読んだところによると、この映画の監督、プロデューサー、主演等々を兼ねているキャメロン・クロウとトム・クルーズのコンビが、フィル・スペクターに関する映画を制作する予定だとか、個人的に非常に愉しみにしています。


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