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息子の部屋
監督:ナンニ・モレッティ
2002年1月20日(新宿ピカデリー4)

 あるいは肉体の不在



 所謂「煽情的な映画」がどういうものかと言えば、例えば、4人が3人になる、物語の要請に従ってその欠落がスクリーンに捉えられる映画の場合ならば、先ずは「未だ4人であること」と「その状態の完璧さ」が殊更に強調され、後に生じる事態が正に「欠落」と映るよう周到に仕向けられている、そういう映画のことです。単純な話、フレーム内に終始4人を収めておけば、それが後に「3」に減じたとき観客はその変化に対してより敏感に反応し得るわけで、そもそも見ず知らずの、況んや虚構に過ぎない誰かの不在に情動を刺激されてしまう不可解の因はおよそ其処に、もし仮にスクリーンに於ける虚構としての死が悲しいとすれば、それはその「死=不在」が生じる以前の、完璧と錯覚させられてた或る状態への「ノスタルジー」にも似た感情なのであり、身近な誰かの現実としての死に際してのそれとは少し違っているはずです。この『息子の部屋』という真摯な映画が、少なくとも「煽情的」でないのは、それが決して「ノスタルジーの装置」などではない故、フレームが「4」を其処に収めるなど、実際、数えるほどしかないのです。

 別に現実主義的なアプローチが「正しい」とは思わないのですが、この映画が安っぽいノスタルジーを遠ざけ得ているのは、本来完全な形で提示されるべきものが既に「緩やかな崩壊」を体験している、要は「現代」に於ける家族の典型的な有り様を示しているからに他なりません。其処に何かしらの「現代」を反映させるつもりならば、同一フレーム内に「4」を収め続けることなど先ず以て不可能、そもそも精神分析医という父親の職業が家族という社会の最小単位と見做されてきた集団の機能停止ぶりを既に指摘しているわけで、其処にある種の倫理観を持ち合わせていれば、残念ながら、もはや「煽情的」でなどあり得ないのがおよそ現代の物語なのです。勿論、一個のフレームに四つの個体を収めるという「肉体の緊密さ」がすべてではないとは言え、しかし、此処に於いては、この映画のファーストショットでもある父親の「ジョギング」など象徴的だと思うのですが、彼らがそれぞれにスポーツに打ち込むそれは「肉体」との過酷な対峙に他なりませんし、父親の後悔は息子の「肉体」を引き止めなかったことに、あるいは、母親が棺桶の蓋に反応して途端に取り乱すのなど「死」が何よりも先ず「肉体の不在」であるという証左と指摘できるわけで、否、何よりもこれが「映画」である以上、「肉体」への過度の期待は避けられ得ないのです。何れにせよ、此処に在るのはそれらが予め緊密さを欠いた現代の物語であり、それでも尚起こり得る「欠落」に関する映画なのです。

 既に緩やかな崩壊の過程を体験するこれが、それでも相変わらず「家族」に関する映画であり得るのは、此処に捉えられた数少ない「4」が紛れもない一個の集合体(塊)として観客の目に映るからに他ならず、それは最後に漸く長男が其処に加わるリビングの場面であり、あるいはこの映画の中で唯一彼ら4人が一個のフレームの中に行儀良く配置される自動車の場面なのです。そして、この「4」が「3」に変じる映画に於いて、その欠落が加速させる家族の崩壊を押し止めることになる、言わば「救世主的」な存在である少女が、果たしてスクリーンの何処に収まっているのかと言えば、正にフレームが嘗て「4」を捉えていた二つの場所、即ちリビングと自動車であるというのは、勿論、偶然などではなくて、故に自動車はいつまでも停車しない(停車できない)のであり、其処に再現された「4」あるいは過剰としての「5」が、彼らの問題を解決する糸口として映画的に機能し得るのです。停車しない(停車できない)自動車のシークエンスが取り分け美しく感動的なのは、其処に嘗て「4」が在ったことを我々が知る故、そして、それが決して「煽情的」であったりしないのは、其処にしか「4」が存在していない故のことなのです。最後の、カメラが家族から遠ざかっていく美しいカットは青山真治の長尺のそれと同じ、もはや問題解決の糸口を見出した彼らから、無事その役割を終えた「映画」が離れていくとでも言うべきか。

 その「停車しない自動車」のシークエンスに於ける「5」もそう、例えば、執拗に反復される診察の場面や診察室と家族の空間を隔てる数えるのも億劫になる枚数の扉、あるいはテニス、バスケットボール、ジョギング、ダイビング等々といった此処に登場する多種多様なスポーツ、この一見して淡々と静かに流れているかのようにも見える映画の随所に独自の「過剰」が顔を覗かせているのですが、此処に於いては差し当たって鳴りを潜めているモレッティのおよそ「政治」に向けられたユーモアが、専らその「過剰」によって表明されていたことをすれば、此処に於けるそれらにも容易に理解が及びます。

 公開二日目の日曜日の午後、それなりの公開規模とは言え、相変わらず特定の作品が近隣地域の複数のスクリーンを独占してしまっているという好ましからざる「現実」も含めて、とても環境に恵まれているなどとは言えないのですが、とにもかくにも立見の出る混雑ぶりは何よりなことで、今後の展開に期待したいところです。
 私のような捻くれた人間は、映画を観てある種の「快感」を得ることはあっても、所謂「感動」を得ることなど余りないのですが、この映画の「停車できない自動車のシークエンス」にはつい目頭を熱くさせてしまいました。『白い花びら』の「犬がバスを追いかけるシークエンス」以来のことではないでしょうか。


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