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ABCアフリカ
監督:アッバス・キアロスタミ
2002年1月27日(ユーロスペース1)

 寡黙にして饒舌な



 およそ退屈で凡庸なドキュメンタリーというのは専ら「期待された物語」であるに過ぎないわけで、それはつまり、カメラが回り始めるより先に予め「言語」として用意されていた「情報=メッセージ」が、その映画を見終えた人間の頭に正しく、やはり「言語」として伝達されているという、確かに「媒体」としての機能は十全に果たし得てはいるものの、しかし、所詮は「媒体」でしかない、そんなフィルムのことです。このキアロスタミの、国連の要請で制作されたというドキュメンタリー映画が非凡なのは、其処に予め在ったはずの(国連の)意志が見事に裏切られている故、否、奇を衒っているわけでは決してなくて、カメラが回り始めるより先に予め用意されていた「メッセージ=言語」が、しかし、そのつもりで実際にカメラを回し始めてみるとまるで捉えられておらず、故に其処に発見し得る「言語」も変容しているという、それはおよそファインダーを覗く人間の態度の問題であり、その「誠実さ」が果たし得た奇跡の如き裏切りなのです。

 このドキュメンタリー映画は全編「通常の撮影で用いられる『35ミリ』が抑圧の装置ならこれは優しい友人である」と、キアロスタミがそんなふうに表現しているデジタルビデオによって撮影されているのですが、「優しい友人」の身軽さはその視線を人間のそれにより近付け、故にクロースアップが多くなり、また、例えば、ビデオカメラを持った人間が(ビデオを回しながら)身体を屈めれば、その動作が恰ももう一つ別の視線によって目撃されているかのような、そのくらい直接的に身体の動きを感じ取ることができてしまうわけで、視線が即ち肉体であるとでも言うべきか、何れにせよ、より「媒体」を意識させるものとなっています。フィルムのそれと比べれば粒子も粗くお世辞にも美しいとは言えない「映像」であり、あるいは「視線」であり「肉体」であるそれが、其処にクロースアップで捉えるのは専らアフリカの子供達であり、その点に於いては確かに国連の期待に応え得るものと言えなくもないのですが、しかし、彼らが対峙するその「向こう側」にあるのが「世界」であることを既に了解しているかのような子供達の笑顔に、国連がその伝達を期待したはずの「不幸」を発見することは、少なくとも私には出来ませんでした。其処に捉えられる子供達の姿は実に生き生きとし、我々、彼らと比べれば幾らかはマシな環境に暮らしているのであろうとの自覚を有する大人どもが何らか手を差し伸べる必要が果たしてあるのかと、実際、そんな疑問さえ浮かんできてしまうのです。彼らの「不幸」に関心を向け、その先の具体的な何かを期待しているはずの「依頼主」にしてみれば、先ず以て其処に「不幸」をすら発見し得ないのなどやはり裏切り以外の何ものでもなくて、その意味に於いてこれは大いなる失敗作であると、否、それ以前の問題として、国連は依頼すべき相手を間違ったということでしょう。

 スターリンの有名な発言を裏返しにするわけでもないのですが、国連が伝達を企図したのは言わば「統計に過ぎない不幸」であって、しかし、キアロスタミのデジタルビデオが此処に捉える(図らずも捉えてしまった)のは「一人(一人)の逞しき幸福」とでも言うべきもの、映像であり視線であり肉体である一個の「意志」をある種の誠実さを以てスクリーンに提示するそれが「ドキュメンタリー映画」と呼ばれるものであるならば、それが提示し得るものはこの映画でキアロスタミが実際提示し得たその限りなのであって、例えば「エイズで二百万人以上が既に死んでいる」といった「統計に過ぎない不幸」を其処に提示することなどそもそもが不可能、何故ならそれはあくまでも「言語」でしかないからです。勿論、このドキュメンタリー映画にその「統計に過ぎない不幸」がまるで示されていないというわけではないのですが、しかし、それは文字通り「言語」即ち「ナレーション」によって申し訳程度に為されているのみ、ビデオカメラはあくまでも今其処に目撃され、「情報」によって相対化されたりはしない「真実」を捉え続けるのです。「統計に過ぎない不幸」を映画(映像)が取り扱うとするならば、それはむしろ「虚構」の領域、国連の意図に沿うようなそれを「不誠実」と断言できてしまうのは、それが「ドキュメンタリー映画」とは名ばかりの虚構、即ち「期待された物語」に過ぎないからであり、映像であり視線であり肉体である、故に「クロースアップ」を多用するしかないその余りにも誠実な一個の主体には「俯瞰ショット」など、決して撮り得ないのです。これは「映画など所詮は虚構に過ぎない」という諦念から最も遠いところにある、寡黙にして饒舌な一つの企みなのです。

 尚、一つだけ補足しておけば、この映画はタイトルバックでとんでもない「大嘘」を示してみせます。キアロスタミにしてみれば「国連からの依頼」が既にして「虚構」ということなのかも知れません。

 公開二週目の日曜日の午後、キアロスタミというのは、少なくとも渋谷のユーロスペースに普段から足を向けるような類の人種には、もう少し人気のある監督なのかと思っていたのですが、案に相違して劇場はガラガラ、今どきアフリカの子供達を扱ったドキュメンタリー映画など、と黙殺する向きも多いということでしょうか。実際に観た立場から言わせてもらえば、その類の映画からイメージされるある種の「退屈さ」とは最も遠いのがこの映画なわけで、私としては「騙されたと思って」と、つい常套句を口にしたくもなってしまうわけです。尤も、暗闇に身を沈めてスクリーンを凝視していた84分間のうち、何であれ「アフリカ」について考えたのなど数秒もなかったのですが。
 数ある上映作品の中でどれを観るかという選択の基準は、お話の内容なり監督の名前なり、ヒトそれぞれ、中には「84分」という上映時間(の短さ)に惹かれてその作品を選択する人間もいるわけで、この映画を観に行ったときの私が正にそれ、ですから、その上映時間の短さを無理矢理に埋めるべく配置された長大な予告編には殺意すら覚えてしまったのですよ。


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