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恋ごころ
監督:ジャック・リヴェット
2002年2月9日(シャンテ・シネ1)

 巴里のイタリア人



 語学の素養がある程度以上ない限り、外国語の映画を観るに際してはやはり字幕に頼らざるを得ないのですが、本来「音」であるものが「文字」に、つまりは本来「聴く」べきものを「読む」ことになるわけですから、どうしてもある種の弊害は避けられません。スクリーンに対する集中力の問題は「慣れ」が解決するにしても、例えば、ゴダールの多くの映画がそうであるような「視覚の対象となる言語」(即ち文字)と「聴覚の対象となる言語」(即ち音声)がスクリーンに混在するような場合、しかし、字幕として日本語に置換えられてしまったそれらは等しく視覚の対象となるのみで、其処に何らかの意図があろうとなかろうと、本来在ったはずのものとは違ったカタチでの認識を余儀なくされているのは言うまでもないことです。勿論、その場合の言語をあくまで「意味内容伝達のための道具」として捉えるのならば、些かの不正確さに目を瞑ってやはり「慣れ」の解決を待てば、ただ単に媒体の違い、然程の問題でもないのかも知れませんが、しかし、それが「意味」を運ぶ道具でしかないなど実際あり得ない話なわけで、それはゴダールが試みる「使い分け」が易しく教えることでもあり、否、単純な話、仮にその「意味」がまるで同じであったにせよ、耳から入るか目から入るか、その違いを無視することなど到底出来ないのです。故に、語学の素養などまるでない私はゴダール映画のナレーションの類を「読む」ことは端から抛棄して専らその「音」を、それでも視覚として捉えるべきはスクリーンに絶え間なく出現するわけで、確かに、そんな動作は必然として「意味」を等閑にしてしまうのですが、しかし、その丁度逆の動作もまた何かを等閑に、(語学等の素養が足りない故に)その両方を同時に得ることが能わない以上、どちらか片方を選択するより仕方がないわけで、私の場合は「意味内容」ではない方、敢えて言うならば感覚に直接訴えかけてくるそれを選択しているということなのです。

 さて、字幕の弊害というか、語学の素養のない人間は熟も苦労するというか、この『恋ごころ』という映画にもそんな場面があって、此処に断片的に挟み込まれる舞台の場面がそれ、それ以外がフランス語であるのに対して舞台上の台詞はすべてイタリア語なのですが、しかし、当たり前の話とは言え、字幕として現われるのは何れも日本語なわけで、舞台上のそれを(括弧)で括るとか、あるいは其処だけ字幕を出さないとか、せめてそのくらいの工夫があってもよかったのではないかと、そんなことを思ったわけです。勿論、意味など分からないにしても、フランス語とイタリア語の「音」を聞き分けるのなどそんなに難しいことでもありませんし、それ以前の話として、舞台上のそれがイタリア語であるという状況は物語的に十分に説明されていることですから、字幕の工夫などなくとも、それらが「違う」こと、あるいはそれらがもたらす「効果」のほどを観客はそれなりに知ることができるのですが、しかし、フランス語を母国語として専らその「耳」からこの映画の言語情報を得る人達が此処に何を体験するのかということに考を巡らせれば、肝心のところで「耳」を遊ばせてしまう人間の体験し得るそれが非常にに貧しいものである、そうならざるを得ないということにも気が付くはずです。

 この映画が所謂「現実主義的なアプローチ」から程遠い演出方法によって撮られているのなど始まって30秒もすれば誰にでも分かることで、ジャンヌ・バリバールの身振り手振りを交えた如何にも「演劇的」な独言に拒否反応を示す人がいても別に不思議ではありません。勿論、世紀が新しくなったからと言って映画が其処に在る人物の心象伝達を試みるに於いてその類の非現実性を受け容れざるを得ないのは相変わらずであるとは言え、しかし、例えば『カンダハール』のニルファー・パズィラの手に終始握られていた「小型録音機」など分かり易いと思うのですが、説明的でしかも明らかなに不自然な動作をほんの少しくらいは自然にみせる方法も一応はあるわけで、要はその程度の誤魔化しすら許容せず、言わば堂々とその非日常性を宣言してみせるのがこの映画なのであり、従って、此処に於ける「日常」と「非日常」の幸福な融合という一つの結論はある意味必然、と言うより、此処に於いては「日常」と「非日常」を分けるものなどそもそもが希薄で、それこそウオッカの飲み過ぎで見分けがつかなくなってしまう程度のものでしかないのです。しかし、だからと言ってそれらの間に何の隔たりもなく、その切り替わりが平板なものであるかと言えば、決してそうではなくて、此処に於ける「音」の効果がつまりはそれ、耳慣れぬ言語が溢れる其処は正しく「非日常」なのであり、唯一それがこの既にして映画的(非日常的)な空間をさらに切り分けることになるのです。ハイデガーのドイツ語も然り、やはり其処に非日常を持ち込む、日常を「異化」する道具であると言えます。

 それにしても、この映画がフランス語圏で上映される場合、イタリア語の箇所はどのように処理されているのでしょうか? もし字幕が出ないのであれば、日本語のそれも出すべきではありませんし、字幕が出るのであれば、日本語のそれは(括弧)で括って、それ以外の部分との差別化を図るべきでしょう。

 この映画のクライマックス(?)の場面での「先ずはウオッカの瓶を落とす」という演出が絶妙だと思ったのですが、ともかく、気になる方は劇場まで、と。

 公開初日の土曜日の午後、二時間半という比較的長い上映時間も影響してか、単館上映の初日としては客足も疎ら、あるいは、今どき「ジャック・リヴェット」の名前を有り難がる人など何処にもいないということでしょうか。ともかく、良い映画だと思います、個人的に。


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