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マルホランド・ドライブ
監督:デイヴィッド・リンチ
2002年2月16日(シネマスクエア東急)

 増殖する言語の誘惑



 私の親族にロサンゼルス在住の男がいて、その男が数年前にやはりロサンゼルスで結婚を、その結婚式に参加した折り、その男の仕事の関係もあって安っぽい観光案内のバスに半日ほど揺られるという憂目に遭ったのですが、そのバスの経由地点の一つに「マルホランド・ドライブ」がありました。勿論、その当時はそんな名称など気にも留めなかったのですが、映画の中に何度か現れる「マルホランド・ドライブ」からロサンゼルス市街地を俯瞰する夜景が私の記憶と何となく重なるところがあって、調べてみたらやはりそうだったという話、「このあたりは夜になるとスピードを競う若者達が集まってきて非常に危険です」というガイドの解説があったような記憶もあるのですが、それは多分、私の記憶違いなのでしょう。

 世の中には「よく分からない」と評される映画が少なからずあって、この『マルホランド・ドライブ』というのもおそらくはそれに属する映画なのだと思うのですが、しかし一口に「分からない」と言ってもその意味は様々で、例えばカサヴェテスの映画を観た人が発する「分からない」とリンチのそれを観た人が発する「分からない」ではまるで意味が違うわけで、前者のそれがその映画の存在自体に向けられているのに対して、後者のそれは専らその「物語」に対して、従って、その存在の意味まで疑われてしまうことはさすがになくて、例えば、後者の場合「よく分からなかった」ことを理由に再度映画館に足を運ぶ人が少なからずいるのなどその何よりの証左と言えるのでしょう。さらに言えば、デイヴィッド・リンチのその類の映画というのは、もうほんの少しだけアタマを上手く働かせることが出来れば何かが「分かる」かのような錯覚を観客に対して常に抱かせるところがあって、それもやはり(一見して支離滅裂な表層でありながらも)観客をスクリーンに引き付け、場合によっては、何度も入場料を払わせてしまう理由の一つと言えるのかも知れません。例えば、映画に於いては「時制の操作」など然して珍しくもないのですが、本来物語の外部からの働き掛けである、つまり、物語を構築するための一個の技法であるはずのそれが、リンチの映画の場合は(親切なことに)物語の内部にその動作を予感させる何かがあるという、この映画の場合ならばあの「青い箱」や如何にも「リンチ的」な異形どもがそう、表層の不可解がやはり表層の働き掛けに因るに過ぎないのならば、何となくその答えが近くにあるような気もしてくるわけで、つまりはそういうこと、迂闊な人が「芸術的」などと評価してしまうのかも知れないそれが、しかし、実際には妙な「気取り」から案外と遠くにあることができるのも、物語の次元にすべてを隠しているかのような錯覚が其処にある故、否、単なる「錯覚」ではなくて実際そうなのかも知れないのですが、まあ、映画を観ながらほんの少しアタマを働かせることすら億劫に感じてしまう私にしてみれば別にどちらでも良いこと、何れにせよ、此処あるいはリンチの幾つかの映画にあるのは「不条理」ではなく、正しく「謎」とでも呼ぶべきそれ、実際それがあるのかないのかはともかくとして、解答は常に予感されていて、その「予感」がある種の観客を引き付けて止まないのでしょう、恐らく。

 さて、それが良いことか悪いことかはともかくとして、そうやって「物語」に多くを託してしまうと、結果的により多くの「言語」を生み出すことにもなって、それはこの映画のパンフレットやウエブサイトを眺めて其処に溢れているものを確認すれば容易に知れることで、「物語」というそれがそもそも「言語活動」以外の何ものでもないということからすれば、あるいは道理とも言えるのかも知れません。上の方でも名前を出したカサヴェテスを引合いに出してみれば、彼の映画の場合、物語などあってないような単純なものに過ぎなくて、それ自体を理解できない人など恐らくはいないはず、しかし、それでも「分からない」と漏らす人が少なからずいるのは、むしろ物語が単純であり過ぎる故、何一つの「言語」すら発見できない、「言語」の誘惑に乏しいそれがある種の「退屈さ」と結び付いてしまうのは、リンチのそれに於ける不可解がむしろ「退屈」とは程遠いというその事実を丁度裏返しにしたようなものと言えるのかも知れません。確かに、此処からあらゆる「言語」を排除しても尚「何か」が残るわけで、そうやって其処に残った「何か」をしてこれを評することも勿論可能、実際それは十分な評価に値するものなのだと思うのですが、しかし、この監督に限って言えば、そういうふうに、それこそ「芸術」などという言葉を持ち出して何らか評価するのなど案外退屈であるような気もするわけで、別に「巷間に『言語』を増殖させる映画作家」ということでも良いのではないかと、否、実際そうなんですから。

 公開初日の土曜日、上映時間の関係で一日に三回しか上映されないその三回目を、開場前から長蛇の列が出来て、勿論、満席でした。公開の規模が案外な小ささであるのに加えて、新宿地区での上映館が、あらゆる点で私を不愉快にさせる「シネマスクエア東急」であるという、否、これを特別に重要な映画などと思ったりはしていないのですが、それにしてもしかし、もう少しマシな環境をくれてやっても良いのではないかろうかと、近日公開になるらしい指輪に関する映画が、彼の「ハリポタ」以上の上映館を既に確保したという報道など目にするにつけ、何となく気が滅入ってもしまいます。
 折角の機会なので私も「言語」の増殖に加担してみたいと思うのですが、これはやはりビリー・ワイルダーの有名なそれが「死体のモノローグ」から始まっていたことと決して無関係ではないはずで(腐乱死体のショットがワイルダーのそれの土左衛門のショットと直接的に結び付きます)、故に最も一般的な「解釈」とされている「前半が夢である」というそれで先ず間違いないはず、そもそもデイヴィッド・リンチというのは相当に無茶なことをやるように見えて、しかし、案外そうでもなくて、例えば、物語冒頭の「マルホランド・ドライブ」に於ける自動車事故でローラ・エレナ・ハリングが大した怪我もしていないという「非現実」は、文字通り「非現実」であると解釈するのが妥当なのです。


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