Index

 
夜風の匂い
監督:フィリップ・ガレル
2002年2月17日(銀座テアトルシネマ)

 過去形の空間



 子供に馬の絵を描かせると大抵が横向きに描くそうなのですが、『心の壁、愛の橋』というアルバムのジャケットに用いられたことでも知られるジョン・レノンの子供時代のそれは奔る馬を真正面から見据えた、要は観る人の方に向かって突進してくるという少し恐ろしいもので、その絵は彼の子供時代の非凡さ語る上で欠かせないものの一つとなっています。十三歳で既に処女作を撮ってしまったという天才が二十歳の時に撮った「機動隊を真正面から捉えたショット」は、彼の「才能」というより「行動力」を教えるものなのですが、と、否、単にフィリップ・ガレルの逸話からジョン・レノンのそれを連想したというだけの話、別に何の関係もないのですが、何れにせよ、これはそのフィリップ・ガレル自身の逸話に関する、自らを真正面から捉えた映画とでも呼ぶべきもの、個人的と言えば個人的な映画です。

 ミケランジェロ・アントニオーニによる幾つかの作品や、あるいはそれらを意識したのかも知れない北野武の『菊次郎の夏』に於いて印象深いのは「過去形の空間」とでも呼ぶべき無人の風景ショットです。それがどのようなものかと言えば、例えば、予め固定されたカメラの前を(物語的に意味のある動作、情況として)何者かが通り過ぎて行くような場合、通常ならばその人物がスクリーンから消えたことを合図にそのカットも終わるのですが、「過去形の空間」とは物語的な動作が完了した後も引き続きその無人となった空間が捉えられ、しかし、決して何が起こるというわけでもないそれ、このフィリップ・ガレルの『夜風の匂い』にもそんな「過去形の空間」が数多く現われます。例えば、下車した人物が既に姿を消しているにも関わらず、スクリーンにいつまでも自動車が捉えられ続けているような場合、通常、其処にはそれなりの意味があって、その数秒後に自動車が爆発するとか、あるいは独りでに動き出してしまうとか、否、むしろそういった何らかの「事件」と繋がることによって其処に漸く意味が生まれるわけで、何らの事件に引継がれることもない単なる「引延ばし」に意味があるとするならば、それは単に「嘗て其処に何かが在った(が今はもう何もない)」というただそれだけ、「現在」を喪失した正しく「過去形の空間」でしかないのです。勿論、例えば「場面の余韻を残す」とか、そうやって無人の空間を捉え続けることによってもたらされる「効果」もあるのですが、しかし、此処に於けるそれらは何らかの「効果」が期待されているというより、やはり「嘗て其処に何かが在った」という当たり前な、しかし、見落としがちでもある「事実」を映すためのものであり、この映画がフィリップ・ガレル自身の「過去」との関わりを指摘できるものであることからすれば、それも十分に頷ける話です。

 例えば、ある道路をフィックスで捉え続けたとして、しかし、其処に一台の自動車も通過せず、しかも何一つの変化すら生じなければ、其処にはひたすらに「現在」が在るのみで、「過去」が生まれることなど決してありません。もし仮に絶対的な流れとしての「時間」が存在しているにせよ、我々の知覚を促すのは、時計の針が如何にして我々に時間を教えるのかということに考を巡らせるまでもなく、何らかの「変化」なのであり、つまり時間とは変化、変化とは時間であると、勿論、現実の世界に於いては時間が止まってしまうことがあり得ないように、何一つの変化もあり得ない場面、情況を想像することなど到底できないのですが、しかし、映画に於いては、既述の道路と自動車のように、場面に何一つの変化も生じさせないことによって時間を止めてしまうことも実は容易に出来てしまうわけで、従って、其処に虚構としての時間(実際にフィルムを輪転させている実時間ではなく)を捏造するには、何よりも其処に「変化」を捉えることこそが肝要、と、否、そんなのは今さら分かり切った話とは言え、しかし、此処に於いては件の「過去形の空間」の多様など正にそうなのですが、「変化」が「時間」あるいは「過去」をフィルムに焼き付けるというそれがもはやこの映画それ自体であると言っても間違いではないくらいに激しくて、此処に於ける「変化」とは勿論「疾走する真っ赤なポルシェ」で、オーストリアやイタリアを駈け抜けるそれがスクリーンにフィリップ・ガレルの「過去」を悉く刻み付けていくとでも言うべきか、否、あるいはただそれだけの映画に過ぎないとも。何れにせよ、この映画がある種のセンチメンタリズムを回避し得ているのも、此処に於けるそれが予め在る何かを「変化」が切り裂くことによって生み出される、言わば「映画的」なものである故、過去を連想させる何かがただ漫然と晒されているのではないのです。

 この映画を観ていて何となく「トリッキー」な感じがしたのは、件の赤いポルシェを走らせている場面で、そのポルシェにはカーステレオはおろかラジオすらないと説明された直後にBGMが流れるというそれ、自動車が走っていて、しかも運転席での遣り取りが主に捉えられてような場面で音楽が流れる場合は大抵、単なる「便宜」とは言え、カーステレオからそれが流れていることになっているわけで、故にこの場合は「一体何処で音楽が流れているのか?」などと一瞬考えてしまうのですが、勿論、これは映画ですから何処で音楽が鳴っていても別に不思議ではなくて、そのヘンが即ち「トリッキー」であると、しかも、会話の度にBGMのボリュームが小さくなるというのは、もはやある種の開き直りであるのかとも。

 この映画は表題がそうである通り、とにかく「夜」が素晴らしく美しい映画です。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、今さら驚くべきでもない事態、所謂「フランス映画」の健全な在り方とでも言うべきか、劇場はガラガラでした。年輩の女性が比較的多いようにも見受けられたのですが、あるいはカトリーヌ・ドヌーヴによる「そういう映画」と勘違いされた向きも多くいたのかも、実は私自身もそんなお話だと勝手に思い込んで観ていた一人です(念のため、私は勿論「年輩の女性」ではありません)。それにしても、この映画でのドヌーヴの年齢設定は、私の理解に間違いがなければ、四十歳ぐらいのはずなのですが、幾ら実際より若く見えるとは言っても、さすがに六十を過ぎた人が演じるべき役柄ではないと、場合によっては物語の理解に支障を来してしまうことだってあるやも知れませんし。まあ、相変わらずお美しいのはお美しいのですが、ね。


Index