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キリング・ミー・ソフトリー
監督:陳凱歌
2002年2月23日(新宿アカデミー)

 生きよ、堕ちよ



 雪山での登山事故とその落下のイメージに始まるこの映画は、エスカレーターでの擦れ違いという、やはり上下の感覚を強く意識したのであろうラストカットに至るまで、全体として落下や上昇、段差といった「上下」あるいは「高低」のイメージによってその「サスペンス」が支えられています。上下の感覚ということで何よりも特徴的なのは、この映画では仰角や俯角によるショットが多用されているということ、確かに、現実にあり得ない位置からの不自然な「視線」はそれだけで十分に不気味で、それらの応用はサスペンス映画の基本であるとも言えるのですが、しかし、此処に於けるそれらが必ずしもそういった意味ばかりでないのは、実はそれらが決して「あり得ない視線」などではなくて、実際にそのような、視線に仰角や俯角を要求する、つまり「上下」の人物配置が多用されているのであって、例えば、物語の主たる舞台となる屋敷の構造など明らかにそうなるよう意図されています。対話する、あるいは視線を交わす男女は予め上下に配置され、その視線は一方が仰角ならもう一方は俯角、ショットの不安定が同時に「疑惑」や「不信」という両者の関係の不安定を、この映画で最もスリリングなのは、裸足で屋敷を飛び出した女を男が追い掛ける場面、具体的にどういう構造になっているのかはよく分からなかったのですが、物陰に隠れる女が「下」でそれを探す男が「上」に、其処に於ける上下の構造は視線の歪みを生じさせるのではなく、角度で言えば180度に達したそれはもはや視線を遮断すべく機能、実は「不信」が頂点に達するというその場面の物語状況にも丁度符合しているのです。この映画を支配するそういった構造の基本は勿論映画の冒頭に現れる雪山での落下のイメージ、物語的なことで言えば、それが男に対する「不信」の原点でもあるのです。

 この映画が、しかし、如何にも退屈で、サスペンス映画としてとても褒められたものでないのは、そうやって観客に対して「上下の構造」とでも呼ぶべきを散々意識させておきながらも、既述の「裸足」の場面を例外として、肝心のところではその上下の配置、高低差をまるで活用しない、その気配すらみえない故のことです。例えばあの屋敷、男女の間に仰角や俯角の視線を捏造するという類稀なる「サスペンス構造」を持ちながらも、しかし、誰一人として、それこそヒチコック的にあの階段を転がり落ちる人間がいないというのは一体どうしたことか、そんな場面が脚本にないなどまるで関係のない話で、それこそ脚本を書き直すか、あるいは物語を多少破綻させてでもあの屋敷の二階から一階へ誰かを突き落とすべき、否、他でもない「サスペンス映画」を撮るつもりの監督ならそういう欲求が生じて当然だと思うのですが、彼の「中国の俊英」にはさて、娯楽映画は些か荷が重過ぎたということでしょうか。女は下降し男は上昇する、二年後の彼らをエスカレーターで擦れ違わせるというイメージの持続を約束するシークエンス(しかも女の首には黒いスカーフまで巻き付けるという如何にも思わせぶりな演出)を物語の最後に用意することはあっても、しかし、肝心のクライマックスの場面では、確かに「登山」に多少関係のある道具が用いられるとは言え、其処に折角在ったはずののサスペンスの構造を活用するでもなく、上下の運動がまるで欠落した平板にして退屈な結論を、否、それにしても一体何故誰も転落しないのでしょう、その地点の標高がゼロのはずはないのですが。

 この際なのでもう一つ指摘しておけば、物語的な盛り上がりを当然期待すべき「マジックミラー越しの対面」の場面を何となく物足りなく感じてしまうのは、やはり其処に於ける男女の配置、視線の「角度」と決して無関係ではなくて、その直前のシークエンスでは如何にも「サスペンス的」に(180度の)角度が両者の視線を遮っていたのですが、その場面に於いては、しかし、角度がゼロであるにも関わらず、マジックミラーを間に挟むという何とも阿房らしい方法によって、やはり視線の遮断が実現されてしまっているという、否、状況として余りにも退屈なのです。別にマジックミラーなど用いなくても、例えば、何らかの高低差を活用することによって「死角」を捏造して其処から女が男の姿を覗き見るとか、やり方は他に幾らでもあると思うのですが。

 物語的なことで言えば、怪しい人は怪しくなくて、怪しくない人は怪しくて、と、サスペンス映画の文法をほんの少しも逸脱しないお話、実はその発せられる地点がそれぞれ異なっている「モノローグ」と「対話」が効果的に観客を欺くことにもなるのですが、しかし、取り立てて驚くべきことが起こるわけでも、ジョセフ・ファインズは果たしていつ豆電球入りの牛乳を持ってくるのか、私は終始そんなことを考えていました。

 公開初日の土曜日の午後、R18の幾分過激な性描写がカップルにも嫌われたのか、ガラガラとは言わないまでも、初日にしてはかなり寂しい客の入りでした。それでも、少ないなりの客の殆どがカップル、頚を絞めながら、というと『愛のコリーダ』など想起するのですが、否、呉々も事故のないように、と。
 邦題のカタカナ英語は何とかならないものでしょうか。多少でもアタマを働かせてそれなりの邦題を考える気がないのならば、いっそ英語表記のままの方が余程健全だと思うのですが、それじゃあ駄目なのでしょうか?


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