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Dolls(ドールズ)
監督:北野武
2002年10月12日(新宿ピカデリー1)

 自動車から遠く離れて



 さて、これが「本格的な恋愛映画」なのかどうかはともかくとしても、北野武監督によるそれ以外の殆どの映画と比べて些か趣を異にするのは間違いのないことで、既に多くによって指摘されているように、この監督(の映画)の代名詞ともされている「暴力」が鳴りを潜めていることなどがそれ、この映画に限ったことでもない大胆な「省略法」はスクリーンから直接的な暴力描写を排除しています。尤も、三橋達也による「ヤクザの親分」のシークエンスを除けば、其処にあるのは「暴力」とはおよそ縁遠い日常を生きる人達の物語であり、この監督によるこれまでの映画の多くが、刑事やヤクザといった「暴力=日常」であるような人達の姿を捉えたものであったことからすれば、当然のことと言えるのかも知れません。しかし、その描写が巧妙に排除されているとは言っても、此処にも「暴力」は相変わらず存在しているわけで、否、むしろ旧来通り重要な意味を担っているとさえ、旧来のそれが「暴力」が発生させるある種の「磁場」に引き寄せられる人達の物語であったとするならば、此処に在るのはその磁場から遠ざかろうとする人達の物語、暴力からひたすらに遠く、死に至る男女の道行きに理由があるとすれば正にそれであり、その結末は「暴力」とはまるで無縁の何ものかによってもたらされるのです。

 何よりも興味深いのは、此処に於ける「暴力」がおよそある一つのものに託されているという事実です。その黄色い車体から抛り投げられた携帯電話は対話を拒絶し、菅野美穂が夢中になって興じる玩具や美しい羽根を持つ蝶々をその車輪で踏み付け、あるいはフラフラと彷徨する菅野美穂の前に立ちはだかり不快なクラクションを鳴らす、此処に於ける暴力はおよそ「自動車」に託されているのです。他の場面でもそう、深田恭子演じるアイドルを引退に追い込み、工事現場で自動車誘導のアルバイトをする追っかけ青年(本職は北野監督の「運転手」だとか)の命を縮めるのもやはり自動車、三橋達也が「兄弟分」との抗争を想起する場面、ビルの階上で銃撃戦が展開している最中、その「音」と共にカメラが捉え続けるのは(屋外に駐車された)自動車であり、自動車に戻ろうとしたその時に彼自身に不幸が訪れてしまったのも決して偶然ではないのでしょう。此処に在るのは、自動車がもたらす様々な暴力を契機として、彼らを停滞を脅かすそれら暴力から遠くあるため始まった男女の道行きの物語であり、自動車から遠くあるうちはその横にジャージ姿のヒットマンがいようとも暴力を排除し得た男が、自動車に近づいた途端、術もなく不幸を受け容れてしまう物語なのです。深田恭子が隠れ暮らす如何にも交通の便が悪そうな寒村を訪れるのにも、追っかけ青年達はしかし決して自動車を使いません、その一人は目が不自由であるにも関わらず。

 北野監督の興味が正しい時間軸の連鎖に向いていないことなど今さら指摘するまでもないのですが、そのことが物語を幾らか分かり難くしているのもまた事実で、あるいは編集ミスではないかと疑われる箇所も、例えば「追っかけ青年のライバルである青木が、寒村に引っ込んでしまった深田恭子を訪れるも面会を拒絶され、魂が抜けた面持ちで雨の降り頻る田舎道を歩く」という(ことを説明しているはずの)短いカットがあるのですが、それが挟み込まれている箇所が余りにも不自然であるために、その物語状況の理解すら怪しくなってしまいます。後になって「見事面会(?)を果たした追っかけ青年がその同じ田舎道を嬉々として闊歩する」場面が現れるだけに尚のこと、彼の蛮勇がむしろライバルを出し抜くこと自体が目的化してしまった末のものであることも、それまで執拗に対比を繰り返してきた割にはよく見えてきません。
 難癖序でにもう一つ別の場面、深田恭子が乗っていたらしい自動車がクラッシュしているカット、開いているのは後部左のドアなのですが、それは少し前の場面でマネージャーや社長と同乗していた際に彼女が座っていた座席のそれで(自動車も同じもの)、故にそのクラッシュのカットを見た人はその事故がその同様の場面の延長線上で発生したものと先ず想像してしまうわけで、芸能レポーターが興味を示すような怪しげな場面など想像にも及ばないどころか(そもそもそういう場合は助手席のドアが開いているはず)、大杉漣が其処にいることにすら違和感を覚えてしまうのではないでしょうか。今一つよく分からないカットです。

 時間軸に忠実であることなどすっかり抛棄してしまったこの映画が、それでも、どれほどの混乱をも生じさせないのは、それらが誰かしらの「想起」であることを積極的に明かしている故、例えば、映画冒頭のシークエンス、あの場面に、明らかに場違いな存在である「旧知の男」が並んでいるのは、それに続くシークエンスが彼の想起に基づくものであることを明らかにするために他ならず、彼はただそれだけのためにあの場所に立っていると言っても過言ではありません。また、此処に於ける「想起」の殆どは、その直前に想起の主体が先ずクロースアップで捉えられるという実に単純な構造を持ち、言うなれば、観客はその主体に導かれつつ「想起」に移行するわけです。何れにせよ、肝要なのは、此処に「想起」を果たし得ない人がいるということであり、想起の主体が積極的に明かされるという単純さがその不幸な事実をより明確にしているということです。男女の道行きがその果てに一つの「救い」を発見するのが、本来何ら想起できないはずの人が何かを想起した(かのように見える)その刹那であるのも頷ける話です。
 それと同様の対峙は視線を巡るそれにも、例えば、バラ園に於ける深田恭子と追っかけ青年を捉えたミドルロングが不思議な緊張感を抛つのも、それまでは常に追っかけ青年の視線の先に在るものとして捉えられてきた深田恭子の姿が、彼が視線を失っても尚、同様の視線によって其処に捉えられてしまう故、映画が物語の柵から逃れ真の客観性を獲得する瞬間とでも言うべきか。そう言えば、宙を彷徨う虚ろな瞳が視線などまるで予感させない菅野美穂は「想起」を獲得するのと同時に「視線」をも、これは「抱擁」などより余程重要なことでしょう。

 公開初日の土曜日の午後、初日ですしさすがに混雑しているであろうと予想して、当初は歌舞伎町の劇場でのオールナイト上映を観るつもりでいたのですが、ピカデリー2か3だと予想していた松竹会館での上映が何故か一番の大箱であるピカデリー1だった故、急遽予定を変更して昼過ぎの回に駆け付けた次第、千人の劇場なら間違っても混雑などしないのが北野監督の映画というものです。上映開始1分前に滑り込んだ劇場は想像の通りで全体の3分の1が漸く埋まっていた程度、ピカデリー3ならそれでも十分に満員御礼が出るのですが。この監督の映画にしては女性客が目立っていたのは、やはりこれが「本格的な恋愛映画」と謳われているからでしょうか。この監督の熱心なファンはむしろ女性に多いとも言われていますが。


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