Index

 
プロフェシー
監督:マーク・ペリントン
2002年11月2日(新宿東急)

 表層に於ける事件



 この映画の中に(電話の)受話器の音声が出る、つまり耳に当てる部分を大きく映したカットがあって、それが今どき珍しい感じの、まるでヒチコックの「シャワー」を連想させるような形状のものだったのが印象に残っています。例えば、今丁度私の目の前にある受話器、音の出る穴は僅かに四つしかなくて、斜めに傾いた楕円状のその四つの穴が横一列に並んでいるというもの、今どきはこういうのが主流のはずです。この映画を観た翌日にゴア・ヴァービンスキーの『ザ・リング』という映画を観たのですが、サスペンス/ホラー映画の常道として電話機とその「音」がそれなりの意味を持つその映画にも、やはり同様に受話器の口を捉えたカットがあったのですが、しかし、其処に在ったのは、今私の目の前に在るそれと殆ど同じもの、無数の暗い穴が憂鬱な円を描くそれではありませんでした。確かに、この『プロフェシー』という映画の中でその如何にもアナクロな電話機が登場するのは「片田舎の寂れたモーテル」なわけですから、それはそれである種の「リアリスム」が実現されているとも言えるのかも知れませんが、しかし、こういうのは間違いなく確信犯的なそれ、サスペンス/ホラー映画に相応しい電話機とでも言うべきか、携帯電話が当たり前の昨今、ある種の現実感を犠牲にしてでもそれをスクリーンに持ち込むのにはそれなりの意味があるわけです。しかも、この電話機、旧いタイプのビジネスホンで着信があると番号ボタンの下に並んだ幾つかのランプ(外線か内線かが分かるヤツ)が意味あり気に点灯する仕組みとなっており、それがまた「映画的」な効果を見事に発揮しているという、例えば、主人公が帰宅したばかりの暗い部屋で電話が鳴る場面、カメラは電話機の側から戸口に立つ主人公を捉えるのですが、そのようなカットがあり得るのは電話機が効果的に光っていればこそ、此処に於ける電話機とは「鳴る」もであると同時に「光る」ものでもあるのです。

 無声映画でもない限り、映画のある場面で「電話が掛かってきた」という事実を観客に知らせるためにわざわざカメラを電話機に向ける必要などなくて、その「音」を聞かせればそれで事足りるはず、ほんの一瞬、スクリーンの隅に電話機の姿を捉えておけば、それで十分な親切と言えるでしょう。それでも、着信と同時に電話機をスクリーンの中央に捉えるような仰々しさが決して珍しくもないのは、物語の流れの中でその着信が何かしら重要な意味を担っている故、否、そもそも映画の中では無意味な電話が掛かってくることなどまずありません。この映画の終りの方に自宅にいる主人公が掛かってきた電話に出ない場面があって、その間、カメラはその電話機を捉え続けます。既述のモーテルの電話機とは違って、これは家庭用の普通の電話機なのですが、今どきの大抵の電話機がそうであるように、やはり着信があると電話機が派手に光ります。同じような場面がやはり『ザ・リング』にもあって、ナオミ・ワッツが電話を取らないのですが、その電話機も確か光っていたはずです。しかし、これら両者には決定的な違いがあって、『ザ・リング』のそれがただ単に着信中の電話機を捉えているに過ぎないのに対して、この映画のそれは「電話機が光っている」という事実を捉えていると、否、こうして言葉にすると何となく分かり難くなってしまうのですが、前者のそれは電話機の機能としてただ光っているだけで、着信中の電話機を映せば当然その光っている姿も其処に捉えられてしまうと、それだけのことでしかないのです。他方、後者に於いては電話が着信中であるという「意味」よりも何よりも、とにかく「電話機が光っている」という事実が其処に捉えられており、そして、その当たり前の、単に表層的な事件に過ぎないそれが、この映画に漂う得も言われぬ恐怖感を増幅しているのです。余り質のよろしくないサスペンス/ホラー映画に於ける電話機は専らその「音」で観客を驚かせてやろうと躍起になるのですが、此処に於けるそれは、むしろ「光」によって恐怖を浸透させようと、錆びた金属音が耳に障るあの旧臭い電話機であってさえも、です。

 例えば、ウェス・クレイヴンの『スクリーム』というホラー映画が今一つ低俗なのもやはり電話機の所為、とまでは言わないにしても、其処に登場する今どき(当時)の電話機は「恐怖の装置」としてはどうしても物足りなく感じてしまうものです。今どきの主流である携帯電話はどうでしょう、これからのサスペンス/ホラー映画は恐怖の対象としての携帯電話をスクリーンに如何に捉えるか(「鳴らすか」ではなくて)に掛かっているのかも知れません。電話と言えば、阪本順治の『新・仁義なき戦い。』に出てくるヤクザどもの携帯電話がすべて「バイブ」になっていたのはナカナカ愉快でした。

 閑話休題。夕暮れの空を鳥の大群がサッと飛び立つ、物語とは特に関係なく、そんな印象的なカットが何気なく挟み込まれているのがこの映画、専ら時代が新しい、あるいは物語が奇抜であると言った理由から「新感覚ホラー」などという間抜けな称号を与えられてしまう不幸な映画も少なくないのですが、それらの多くは、実際、優れていれば優れているほどに、既にある良質な技法、表現を忠実に再現しているだけなのであって、この映画もまた例外ではないということです。よく考えてみれば、この映画は妻を失った中年男性と如何にもハリウッド的な女性警官の歯の浮くような「ボーイ・ミーツ・ガール」に過ぎなかったりもするわけで、しかし、そう言ったある種の退屈さと映画の出来、不出来はまるで関係がないとも、否、誰が何と言おうと、この映画は断然に面白くて、怖い。

 公開初日の土曜日の午後、本文中でも俎上に載せた『ザ・リング』と初日が被った所為でしょうか、観客席の惨状はこの映画の恐怖をも凌ぐものでした。途中、丁度通り掛かった『ザ・リング』の方は劇場の外まで列が出来ていましたから、(別に対決しているわけでもないのでしょうが)これは明らかな敗北と言えます。翌日のオールナイト上映で私自身『ザ・リング』を観ているのですが、その時ですら『プロフェシー』の二倍くらいの観客がいましたね。そう言えば、この二本の映画、主人公の職業は何れも新聞記者、今どき超常現象に立ち向かう懐疑的精神と行動力を兼ね備えた(映画的な)職業は新聞記者ということでしょうか、何れにせよ、この二本は色々と共通項が多いような気がします。最近の映画ではジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』とポール・アンダーソンの『バイオハザード』がやはり吃驚するくらいよく似ていましたか。より話題性の乏しい方がより内容に優れているというのは何れの場合も同じです。


Index