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サラーム・シネマ
監督:モフセン・マフマルバフ
2002年11月10日(イメージフォーラム1)

 如何わしき哉、映画!



 此処に於いては差し当たり映画監督が一個の「抑圧の装置」として機能し、その世界をコントロールしている、そして、彼がその立場を抛棄してもなお、その状況は「抑圧の装置」とはまるで結び付かないような人達によってすらいとも易々と継続されてしまう、つまりはそれが社会に関わる「制度」あるいは「構造」の問題であることをも指摘してみせていると、映画生誕百年によせたこのドキュメンタリー映画を何らか「読む」とすれば大方そんなところでしょうか。何よりもの皮肉は(この映画の中で)監督が応募者達に要求するのとはまるで関係のないところでこの映画の主役が決まってしまうということ、泣けと言われて直ぐに泣いてみせる「演技力」など実際にはどれほどの意味もなくて、むしろそれがなかったお陰でカメラの前に長時間立つことになってしまった二人の女性が(より長くフィルムに映っているという理由で)主役の扱いを受けてしまうという、宙吊りにされた「抑圧の装置」はその機能を無様に空回りさせることになるわけです。もし仮にこの映画がその「制度」に対する批判を企図したものであったとするならば、十分な成功を収めていると言えるのでしょう。ただ、私個人としてはそんなことにはどれほどの興味を惹かれるでもなくて、惹かれるものがあるとすれば、それはむしろ此処に捉えられてしまった「カメラの前により長く立っていた、故に主役である」という「映画の如何わしさ」とでも言うべき、考えようによっては至極当たり前な事実に過ぎないそれ、否、「映画生誕百年によせて」と謳うからには、案外、それがこの映画の本旨なのかも知れません。

 トリュフォーの『アメリカの夜』にせよフェリーニの『インテルビスタ』にせよ、映画を客観的に捉える所謂「映画の映画」には一般の映画には決して無いものが其処にあります。映画を客観的に捉えるとはどういうことか、一般的な映画というのは映画それ自体が観客に視座を提供してくれている、つまり、観客は映画が予め与えてくれる視座を借りて其処に何かを目撃するわけなのですが、それが「映画」の視座である以上、其処には決して捉えら得ないものがあって、それは言うまでもなく「映画それ自体」の姿、映画を客観的に捉えるとは、つまり、其処に「映画それ自体」を捉えることに他ならず、「映画それ自体」とは即ち映画監督であり、あるいはカメラなのです。壮絶な群衆のシーンで始まるこの映画が、その群衆と同時に(それと同じくらい重要な対象として)カメラを其処に捉えるのは、これが他でもない「映画それ自体」を捉えようとしている証左、それ以後のあらゆる場面に於いてもやはりカメラが其処にあります。例えば、監督と応募者が一定の距離を置いて対峙するオーディションの場面、嘘でも監督の視線(あるいは応募者の視線)を借りたカットでも挟み込めば、緊張感に溢れた「オーディションドキュメンタリー」が出来上がるのだと思うのですが、しかし、そのようなことはせず、あくまでも監督と応募者の真ん中くらいにカメラを置いて斜めの角度から均等に両者を、そして、監督の前や後ろには、実際回っているのかどうかすら怪しいスクリーンテスト用のカメラがその存在を誇示しているという周到さです。此処に於いてはオーディションが行われているという事実ではなく、専ら其処に監督がいてカメラがあるという事実を、即ち「映画それ自体」が捉えられているわけです。

 肝要なのは、此処で言う「映画それ自体」が其処に捉えられた出来事、この場合ならば其処でオーディションが行われているという事実とは殆ど関係がないということ、それはあくまでもカメラであり映画監督を自称する人物の存在なのです。ただ、スクリーン上で映画監督を自称するとは言っても、彼がスクリーンに捉えられてしまった以上もはや監督でなどあり得ないというのもまた事実で、何故なら、アルフレッド・ヒチコックのように一個のフィクションとして其処に現れるのでもなければ、監督とはそもそもスクリーンの外側にある一個の視線、即ち「映画それ自体」なのですから、映画の中になどあるはずがない、あり得るとすれば、それはやはり「映画監督」という一個のフィクションに過ぎないと考えるより他ないのです。そして、その理屈で言えば「映画それ自体」というのもやはりフィクションであり、其処に捉えられた「映画それ自体」はそれを捉える「映画」に従属するものであるに過ぎないということ、私が私自身の姿を鏡に映してみせるそれとはまるで違うということになります。では、カメラはどうか、カメラもやはり本来は決してスクリーンに捉えられたりはしないのですが、しかし、スクリーンに捉えられてしまったからと言って、それが「カメラ」であることを止めたりはしません。マフマルバフの存在がスクリーンの内と外で、彼の意志に関わりなく、変容してしまう(彼はその変容をむしろ愉しんでいるようにも見えます)のとは対照的、カメラは常にして「映画それ自体」なのです。

 上述した「カメラの前により長く立っていた、故に主役である」の「カメラ」というのは、実際に彼女らを撮影しているそれか、彼女らの正面にあって(彼女ら同様)スクリーンに捉えられているそれか、否、この場合どちらでもあり得るのですが、何れにせよ、その理屈で言えば、この映画の真の主役は「映画それ自体」ということに、カメラは殆どすべての場面に於いてその姿が捉えられているわけですから。それはこの『サラーム・シネマ』という映画が他でもない「映画の映画」である所以でもあります。

 公開二日目の日曜日の午後、『カンダハール』が意外なほどの客を集めた割には今一つの客入り、60人の劇場に40人と言ったところでしょうか。それにしても、イランの人達にとって「映画に出る」というのはどういう意味を持つのでしょうね。「リッチ・アンド・フェイマス」というのはおそらく全世界共通の野心なのだと思うのですが、そういうギラギラとした雰囲気が伝わってこないというか、何となく不思議な感じでした。


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