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バースデイ・ガール
監督:ジェズ・バターワース
2002年11月16日(新宿ジョイシネマ3)

 暗くなるまでこの恋を



 愛に恵まれない男ジョン・バッキンガム(ベン・チャップリン)、26歳。課長昇進を僅差で逃すが、金庫の鍵の保管者に任命された。いわば勤続10年の報奨だ。往々にして無口な傾向はあるが、一度困難な状況で見事な接客を見せた事もあり、適時に問題を認識する能力はある。地元育ちで認知度は高いが、積極性に欠け、新規開発は不得手。ロンドンから60キロ程離れた郊外のセント・オルバンスに独り住まい、ガール・フレンドはなし。ある日、ジョンは人生を変える決意をする。それは惨めかもしれないが、勇気ある行動でもあった、ホームページ「ロシアから愛をこめて」のメール・オーダー花嫁の注文である。モスクワ発236便のアエロフロートに乗ってやってきた花嫁は…。

 上記はこの映画のパンフレットからの引用、パンフレットには必ずある「物語説明」の頭から十数行目までの文章なのですが、それに関しては後述するとして、私が映画を観る場合、事前に予備知識として頭に入れておきたい二つの「長さ」があって、それは「スクリーン」と「フィルム」の長さ、つまりはその映画が上映されるスクリーンサイズと時間です。前者は、その選択が可能な状況なら、映画館での座席の位置を決めるために、後者は(もしかしたら酷く退屈かも知れない)その映画と対峙するにあたって予め心構えをしておくために、理由はそんなところです。ただ後者の時間の長さに関してはもう少し別の意味もあって、それは単純にその長さだけで映画の価値を計ってしまうというもの、これは勿論私の独断に過ぎないのですが、例えば、サスペンスかアクションもので上映時間が90分くらいの映画があったとすると、私は「この映画にきっと面白いに違いない」と考えそれだけでその映画を観る十分な理由と、逆にその類のジャンルで2時間を超すようなのはそれだけで観る気が失せてしまいます。今どきは無駄に上映時間の長い映画が多過ぎる嫌いが、勿論、90分前後の長さの映画なら何でも良いとは言いませんが、実際、その長さに上手く「収めている」という出来映えのものが多く、映像の連鎖によって物語を効率的に語る然るべき技術を其処に発見することにもなります。

 さて、上映時間が94分のこの映画、一連のタイトルクレジットに続く第一番目のシークエンスは主人公がロシアから到着するはずの「花嫁」を空港で出迎えるというそれ、つまり、冒頭に引用した「物語」の続きからなのです。実は私、上映前に少し時間があってパンフレットのこの文章を予め読んでいた所為でいきなり驚かされることに、その文章にあるような主人公の「日常」に関わる二、三のシークエンスが先ず紹介されて、それから漸く何らか事が起こるのであろうと、そんなふうに想像していたわけです。しかし、実際にはタイトルクレジットの合間にも「注文」を済ませてしまい、映画の始まりが即ち事の始まりと、では、それ以前のダラダラとした説明が一体何処にあるのかと言えば、それはその後の物語の中で、例えば「ナレーション的」なものを借りて効率的に為されているわけです。尤も、ナレーション的なものというのはそれ自体が即ち「言語」ですから、物語を語る上では確かに効率的ではあってもとても「映画的」な表現とは、しかし、この映画の場合、その「言語」による説明が為されている間もスクリーンに在る映像の連鎖はまた別の物語を進行させているという周到さ、それは状況が二転三転し物語的に決して単純ではないこの映画が94分という理想的な時間に収まっている所以でもあります。これは一つの言い方に過ぎませんが、言語化にある程度の工夫を要するものこそが、あるいは言語化されたそれと現実の映像の連鎖に一定の距離が認められるものこそが優れて「映画的」であると、パンフレットの文章を長々引用した甲斐はあったでしょうか?

 この映画は物語を効率的に語る術を心得ているだけではなく、注目すべき点はそれ以外にも色々と、例えば「水浴び」の場面、物語的に言えば、主人公が徐々に募らせてきた不安がピークに達する場面なのですが、それが表層に現れたある種の「不在」によって表現されるというのは、単純でいてしかし実に効果的、言語がもたらす不安もそう、肝要なのは主人公はロシア語を理解できないが観客は字幕によってそれを理解できてしまうという両者の立場の違い、それまでは観客のものでもあった不安が彼一人の不安に置き換えられてしまうその瞬間、彼はまさにスクリーンに取り残されてしまうのです。モーテルの場面など70年代の乾いたハリウッド、例えばロバート・アルドリッチの映画でも観ているよう、否、それは個人的な趣味の問題に過ぎないにせよ、主演の男女をジャン=ポール・ベルモンドとカトリーヌ・ドヌーブに置え換えたくもなるこの男女の逃避行の物語は、とかく「映画的」な映画であると、主人公が空港で「花嫁」を出迎える映画冒頭のシークエンス、すべての乗客が降りてもなお相手を見つけられず、諦め掛けて振り返ると其処に女が立っていて自分を見つめている、映画百年の歴史の中で数え切れないほど反復されているに違いないそんな如何わしいサスペンスこそが、私にとっての「映画」です。

 公開初日の土曜日の午後、この映画が単館上映並の酷い扱いを受けているのは来週から公開となる「話題作」の煽りでしょうか、公開規模が小さい上に客足も疎らでは涙も出ませんね。別にこの映画に肩入れするわけでもないのですが、しかし、こういうマトモな映画にはもっとマシな環境を与えて欲しいと切に願う次第です。
 この映画の監督はイギリスの舞台演劇出身なのだそうですが、そういった才能がアメリカのMTV出身の有象無象のそれを遥かに上回っているのはもはや既成事実の感が、否、才能云々というより、彼らの方が遥かに「映画」をよく知っていると、実際、本数を観て研究も熱心しているのではないでしょうか。


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