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マイノリティ・リポート
監督:スティーブン・スピルバーグ
2002年11月23日(新宿プラザ劇場)

 垂直に落ちてくる未来



 余り「時間」のことばかり気にしていると、如何にも余裕のない人生を過ごしているようで気が引けてもしまうのですが、しかし、何であれ「相応しい時間」というのがあって然るべき、例えば、この映画のような正統派のフィルムノアールならば90分、長くても120分くらいが適当ではないかと、尤も、スティーブン・スピルバーグという今どきの大監督がそんなことに無自覚であるはずもなくて、実際、この映画の「第1回目のクライマックス」が訪れるのは映画が始まって105分後くらい、其処で終わっていれば、あるいは「フィルムノアール的」だったのかも知れません。物語的には確かに重要な意味を持つ其処からの40分が、しかし、単なる「付け足し」に過ぎないような印象を抱かせてしまうのは、時間的なそれは勿論のこと、この監督が前作でもやはり同じような物語構成を試みている故、この明らかな「二段構え」の意図するところなど私にはまるで分からないのですが、あるいは極めて「政治的」な何かが其処に隠されているのではないかと、つい穿った見方をしたくもなってしまいます。

 無実の罪を着せられた男のそれを晴らすべくの逃避行の物語、それだけで十分にフィルムノアールなのですが、この映画がそれなりにその「ジャンル」を踏まえていると思われるのは、例えば、本筋とは特に関係のない小さなエピーソード群が主人公とそれを取り巻く物語状況を予め説明している点、雨の日の夜、主人公が薄暗い部屋で死んだ息子のホログラフを見るという場面など如何にも「フィルムノアール的」です。暖色系を落としたざらついた色調がイメージするのは旧いモノクロームのフィルムでしょうか、とにかく、既述の「時間」を除けば、この映画は紛れもなくフィルムノアールと呼ばれる類のものなのです。それでも、この映画がそんなイメージからは何となく掛け離れているようにも感じられてしまうのは、この物語が「未来」をその舞台としている故、そのジャンルは、例えば「禁酒法」の時代を連想させるものであって、未来のそれでは確かにありません。しかし、嘗ての暗黒を世に蔓延らせたのが「禁酒法」だったとするならば、此処に描かれる未来にもやはり人の世に暗黒をもたらす人為のシステムが、つまり、時代は大きく変われども、人間の為すこと、その作り出す社会は何一つも変わりはしないということです。否、そもそも「未来」にその物語状況を借りたフィルムノアールなどもう何十年も前からあって、例えば、ゴダールが既にそれを撮っているわけで、今さら何を珍しがるものでもないのかも知れません。

 差し当たり物珍しい表層を抱えてはいるものの、その実、単なる古典的ジャンル映画に過ぎないこれが、では、如何にしてその「未来」という(本来差別化されるべき)表層をアピールしているのか、確かに、至るところに設置された網膜探知の装置や浮遊する流線型の乗物が観客のイメージに適った、誰の予想をも裏切らない「未来」を演出してはいるものの、しかし、それらは然程重要であるとは思えません。例えば「ジョージ王朝風」の集合住宅で展開する冒頭のシークエンス、表通りには騎馬警官が立ち、向いの公園には手回しのメリーゴラウンドが、これから余りにも古典的な動機で殺人を起こすらしい如何にも旧臭い丸眼鏡を掛けた草臥れた中年男は何処にでもありそうな鋏を構え、そして、漸く駆け付けたトム・クルーズは既に扉の開け放たれた玄関からその現場に突入する、と、其処には何一つの「未来」も存在していないのですが、しかし、その次の瞬間に起こる物語的必然をまるで欠いた、それでいて矢鱈と目を引く「運動」こそが、他でもないこの映画に於ける「未来」のイメージ、天窓を突き破って垂直に下りてくる犯罪予防局員達の姿がつまりはそれなのです。此処に於ける「未来」はおよそ垂直移動のイメージによって、唯一ある「カーアクション」の場面、自動車(ホバークラフト)は我々が日常よく目にような運動をみせることは決してなく、其処でもやはり重力を弄ぶ垂直方向の移動を、あるいは追い詰められたトム・クルーズとそれを追い掛ける同僚隊員は「未来」などまるで予感させないスラム街の汚いアパートの壁を、しかし、やはり垂直に移動することによって其処に紛れもない「未来」を捏造するわけです。その証拠に、それに続く専ら水平方向の運動に終始する自動車工場の場面などチャップリンの映画を想起させる古めかしさすら、其処では一対一の殴り合いさえ行われてしまうのです。

 日本人なら商店街の福引き、アメリカ人なら差し当たりビンゴゲームでも連想するのでしょうか、あの玩具のような装置を転がる木製の球とカラコロ音を立てて転がるトム・クルーズの目玉、垂直の運動によってイメージされる「未来=時間」に対して、専ら球形の物体によってイメージされるそれは、例えば「運命」などと呼ばれる類の「何か」なのでしょう。アガサのあの、其処に球形を捏造するためにそうしたとしか思えないスキンヘッドや最後にはやはりスキンヘッドで現われるトム・クルーズのそれ、物語的結論としてその能力から解放されたアガサの頭がもはや球形ではなくなっているのと入れ替わるように現われる丸く膨らんだ妊婦のお腹、トム・クルーズがプリコグによって投射された映像を指先の光線で操るあの空間もやはり球形のイメージでしたね。

 「子供しか撮れないトリュフォー」と揶揄されたりもするスピルバーグなのですが、このフィルムノアールに登場する文字通りのファムファタール(運命の女)は、その性的な部分が相当に歪んだカタチで具現化されたとでも言うか、否、奇妙に性的で、これはこれで十分に魅力的ではなかったかと、トム・クルーズの細君を演じたキャサリン・モリスの方は相変わらずいただけませんが。それにしても、アガサと兄弟の共同生活という最後のあの状況は、それこそ「トリュフォー的」というか、相当に「怪しい」ものだと思うのですが、それでも、そんな良からぬ想像に至る人がどれほどもいないであろうところがスピルバーグの才能というか、才能の無さというか。

 先々行オールナイト上映の真夜中過ぎの回、帰宅の足もなくなってしまう時間だったのですが、千人の劇場はそれなりに埋まっていました。忘れてしまうくらいの大昔から予告編を上映していた成果でしょうか。あるいはトム・クルーズとスティーブン・スピルバーグ、「ブランド」としてはまだまだ超一流ということかも。勿論、そんな阿房な理由で劇場に駆け付けた人ばかりでもないとは思いますが。


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