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ジョンQ 最後の決断
監督:ニック・カサヴェテス
2002年11月24日(新宿プラザ劇場)

 蛇行する自動車



 ジョン・カサヴェテスという人は余程「自動車」が嫌いだったのか、彼の映画に出てくる自動車はいつもフラフラと蛇行し、発進や停車の度に必ず何かにぶつかってしまう、その無様な姿は彼の親友ピーター・フォークがTVシリーズで演じた「コロンボ警部」のそれと比較しても十分に張り合えるくらいのものでした。そのジョン・カサヴェテスの遺した脚本を彼の息子であるニックが監督して完成させた『シーズ・ソー・ラブリー』という映画があるのですが、それが紛れもなく「ジョン」の映画であると知るのは、スクリーンにフラフラと現れる自動車を発見した瞬間、脚本にその通りの指示があったのか、それともニックの心憎い演出なのかは知りませんが、ロビン・ライト・ペンがハンドルを握るその自動車は『フェイシズ』でフレッド・ドレイパーが、『ラヴ・ストリームス』ではカサヴェテス自身が運転していたそれらと全く同じようにヨロヨロと通りを彷徨い、かと思えば縁石に乗り上げんばかりの勢いでバタンと急停車するのです。さて、左からの追い越しが日本人である私の目に何となく不自然に映ってしまう所為もあるのか、実際はそうではないはずなのですが、しかし、単にフラフラと蛇行しているようにしか見えない自動車を捉えたこの映画のオープニングに私は人知れず感動を、デンゼル・ワシントンの「迫真の演技」が劇場内を嗚咽で満たしたのと比べると、随分と小さな「事件」に過ぎなかったのですが。

 このホープ病院は今休診中だから、すまないがエンジェル病院に行ってくれ。

 デンゼル・ワシントンが救急治療室を占拠してまだ間も無いとき、其処に、そんなこととは露知らぬある急患から電話が掛かってきて、それに応じたデンゼル・ワシントンが上のような台詞を、この映画の「怪しさ」が顕れています。今どき「ホープ」に「エンジェル」など、まともな映画は病院にそんな名前を付けたりはしないはず、案の定、物語後半に向かってこの映画は今どき珍しい「お伽話」へと加速度を増して往くことになるわけです。勿論、それが「お伽話」であるからと言って何かを揶揄する意図などなくて、例えばフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』や『スミス都へ行く』はハリウッド映画史上に残る優れた「お伽話」なのであり、そして、それらが「お伽話」である所以、物語の極端な非現実性が「社会的」な映画から何かを奪ってしまうとも思いません。否、考えてみれば、『スミス都へ行く』のジェームズ・スチュアートがあの生命を賭した演説の末になし得たことが実はどれほどのことでもなかったように、この映画もそもそもがそんなに「甘い」ものでもないのかも知れません。例えば、この映画は主人公に共鳴しているのであろう「大衆」の姿をむしろスクリーンから排除しており、それは、主人公の姿を捉えた監視カメラの映像が全国ネットのテレビで放映されているにも関わらず、それを見ているはずの「お茶の間」の様子が一度もスクリーンに現れることがないことにも明らか、病院を取り囲む野次馬の「声」ですら、そのボリュームは相当に控え目、シドニー・ルメットの『狼たちの午後』とは明らかに違います。映画冒頭に配された若い白人女性の自動車事故が後に黒人男性に授けられる「奇跡」の伏線となるそれはクリント・イーストウッドの『トゥルー・クライム』に驚くほどよく似ているのですが、それは、その「奇跡」が其処に要求された「同等の犠牲」によって漸くもたらされたものに過ぎないことを示唆しているに相違なく、差し引きはあくまでもゼロ、決して「甘い」ものではありません。そして、極め付けは此処に徹底される主人公の善人ぶり、彼はあらゆる手を尽くし、何一つを間違うことなく「物語」を突き進んで行くのですが、確かに、それは観客の共感を得るためのある種の「あざとさ」のようにもみえてしまうのですが、しかし、決してそうではなくて、彼が何一つも間違わなかった故にこそ其処に奇跡が訪れたと、あるいは一つ一つ難解なハードルをクリアしていくことによって漸く奇跡を得る「資格」を得たとも、主人公の非現実性がそのまま物語の非現実性、即ち奇跡を促しているのです。彼を支持しているはずの「大衆」が物語的にまるで機能しないのも道理、此処にあるのはキャプラのそれがそうであったような高次の善意を巡る人間と天使の駆け引きなのであって、決して甘くはない「奇跡」への高いハードルを飛び越えさせてしまう恐るべき「善意」こそがこの映画やキャプラのそれらを「お伽噺」ならしめていると、善意が報われない(現実的な)物語は、其処に善意が足りないからこそ現実的なのです。何れにせよ、こういう映画はもっと撮られるべきではないかと、善意の足りない現実を模倣したところで何が見えるわけでもなく、其処に満たされた善意が何かを隠してしまうわけでもないのですから。

 ニック・カサヴェテスという人は職業監督としては余り上手い方でもなさそう、病状やや経済状態を悉く数値化し、時には数字そのものをスクリーンに捉えるという「サスペンス」は見事だったと思うのですが、いつも何か逡巡していて少しずつタイミングがズレてしまっているような感じがしました。

 公開二日目の日曜日の午後、その12時間くらい前に同じ映画館で『マイノリティ・リポート』の先々行オールナイト上映を観たのですが、それよりも客が少なかったらどうしようかと独り気を揉んでいたのですが、それは杞憂に過ぎなかったようです。オスカー俳優の人気でしょうか。それにしても、この映画の上映開始と日を同じくして、その同じ映画館で次に上映される『マイノリティ・リポート』の先々行オールナイト上映があるというのも何となくイヤな感じ、始まったその日に二週間後の「終わり」を宣告されているようなものですからね。


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