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ブラッド・ワーク
監督:クリント・イーストウッド
2002年12月7日(新宿東急)

 年金生活者の如く



 以前、クリント・イーストウッドと「星条旗」に関する興味深い文章を読んだことがあるのですが、その内容はおろか、それが名の知れた批評家の筆によるものなのか、あるいはネット上に散らばった「日記」の類だったのかすら憶えていないといういい加減さ、それでも、その文章に痛く感銘を受けたことだけは印象として強く残っています。それはともかく、このイーストウッドの最新作がやはり「星条旗」をスクリーンに収めたカットで終わっていることにも多分それなりの意味があるはず、差し当たり「人種の坩堝」たるロスアンゼルスという大都市と、マイノリティが悉く被害者となる図式にアメリカという国家が抱えた普遍的諸問題を発見するとでも書いておけばそれなりに格好が付くのかも知れませんが、しかし、そういったことを単に「横」に捉えただけでは底の浅い社会論が展開されるばかりで極めて退屈、多分『許されざる者』に関しての言及だったに違いない件の文章や、比較的最近DVD化された『ハートブレイク・リッジ』がやはり「星条旗」で終わっていること等々を踏まえて、それらを「縦」に捉えた検証作業こそが肝要、イーストウッド映画と星条旗、何方か、如何でしょう?

 追跡の場面に於ける「障害物」が案外重要なのは、それが場面の平板さを助けてくれる意味も勿論あるのですが、ただ単に走っているだけでは決定的となり得ない追う者と追われる者の物理的な距離をその障害物が巧みに操作してくるからです。それは現実的な意味でそうなる(障害物に躓くとか)場合もあれば、障害物があることによって生じるカットの切り替わりが可能にする「トリック」による場合も、それまでは随分とあったはずの距離が、塀を乗り越える段には突然縮まっているということなど「映画」では然して珍しくもありません。この映画でもそう、イーストウッドが結果的に越えることのできなかった鉄柵の場面、彼の手は犯人の足にもう届いているわけで、それを越えてさえいれば犯人は彼の手の中にあったに違いありません。そもそもこの映画冒頭の追跡のシークエンスに於いて、イーストウッドは一度も障害物を乗り越えてはいないわけで、犯人が軽々と飛び越えていった一番目の障害物にしてもイーストウッドはそれを乗り越えるのではなく些か強引に「蹴飛ばす」ことによって排除、通過しているのです。

 余談ですが、この一連の「追跡のシークエンス」に於ける(確か)二番目の障害物である「段差」の場面、低い位置に据えられたカメラは、上から落ちてきて、コンマ数秒後に再び起き上がって走り出すイーストウッドの姿をワンショットに収めているのですが、しかし、落下した地点はカメラから死角となっており、しかも、その(落下する)人物の顔がはっきりとは見えないという、つまり、スタントが先ず(激しく)落ちて、予め其処にスタンバイしていたイーストウッドがタイミングを計って走り出すということも可能であると、否、実際のところがどうなのかは知りませんし、スタントを使おうがどうしようが別に構わないと思っているのですが、取り敢えず、気が付いたので指摘してみたまでのことです。

 閑話休題。何であれ「障害物」を乗り越えることができない以上、あらゆる意味に於いて犯人を追い詰めることなどもはや不可能なわけで、体温の上昇とエアバッグを恐れ、事あるごとに胸に手を当ててみせる病み上がりのイーストウッドには尚のこと、モノクロームで見せる「悪夢」のシークエンスなどイングマール・ベルイマンの『野いちご』を想起させるわけで、否、そもそもただ単に走る姿が既に何かを失ってしまっているとさえ、故に、彼は背中を向けた男に唐突に発砲し、決して彼が追い詰めたわけではない、もはや身動きのとれない男の心臓をこれみよがしに撃ち抜いたりしてしまうわけです。「儀式」は確実に形骸化しつつあります。

 此処に於けるイーストウッドの庇護者達はそのすべてが女性でありマイノリティであると、それらは、これまでの彼がむしろ庇護してきた対象であり、その逆転は、あるいは何かの「終り」が確実にに近づいてきていることを示唆しているようにも、確かに、彼はこれまでと何ら変わりがないように、彼に救いを求めてきたヒスパニックの女性を庇護することに成功してはいるものの、しかし、彼の身体を取り敢えず機能させている「心臓」が象徴するように、これまでに果たしてきた幾つもの「善行」の蓄えを少しずつ切り崩しながら(あるいは年金生活者の如くに)漸くそれを成し遂げ得たとも、それは、誰の手を煩わすことなくたった一人で(しかも素手で)精神異常者を排除してしまった『恐怖のメロディ』に於けるそれとは明らかに立場を違えるもので、此処に間違いなく反復されている何かが既に形骸化した、文字通りの「儀式」とならざるを得ないのも、つまりはそういうことです。あるいは、イーストウッドの庇護者達はただひたすらにその「儀式」に立ち会うためだけに彼を庇護しているとも、自らの心臓を撃ち抜かせるためにひたすら心臓を提供し続けた「精神異常者=マイノリティ」などその最たるものであり、そしてそれは、人影の疎らな映画館の暗闇に身を沈める誰かにも当然言えることなのです。

 公開初日の土曜日の午後、『ギャング・オブ・ニューヨーク』までの繋ぎという、僅か二週間の上映のようなのですが、それでも(それ故に?)客の入りは絵に書いたような悲惨、今どきクリント・イーストウッドの名前だけではもはや満足な興行は成り立たないということでしょうか、残念なことです。
 余談ですが、「おすぎ」とやらがこの映画とイーストウッドを随分と褒めているのだとか。ある種のメディアに於いてはそれなりに影響力を持つ人物のようですから、そのような「宣伝」は悪かろうはずもないのですが、しかし、『ダーティーハリー4』の当時、その彼(?)がイーストウッドに対して「いつまでも老醜を晒して」とか「ジジイは早く引退しろ」と散々罵っていたのを私はよく憶えていますし、決して忘れることもないでしょう。10リング。


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