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ギャング・オブ・ニューヨーク
監督:マーティン・スコセッシ
2002年12月14日(新宿ミラノ座)

 義眼の藪睨み



 映画館で観た映画を数年後にビデオなりテレビなりで改めて観るということはよくあるのですが、映画館で同じ映画を二回(以上)観るということは、私の場合、殆どありません。二千円弱の入場料を惜しまなければ、特に気に入った映画など、同じものを何度観に行っても別に構わないと思うのですが、恐らくはビデオという「反復のメディア」との無理な差別化の意識が何かを歪めてしまったのでしょう、私は映画館でのそれに然したる根拠もなく体験の一回性を要求、莫迦げた話と思われるかも知れませんが、私は常に「一回勝負」の気構えでスクリーンと対座しているのです。故に「見落とし」は大敵、夜も眠れなくなってしまうわけで、この『ギャング・オブ・ニューヨーク』に関わる体験が私を眠らせないとするならば、この映画のタイトル(題字)が果たして映画冒頭スクリーンに現れたのかどうかというその一点に、情けない話です。

 蓮實重彦が『ブラッド・ワーク』に寄せた文章の中で、イーストウッドの活劇を「素肌に傷跡を隠し持つ者だけに許された復讐の物語」と書いています。この一文を引合いに出すことが適当かどうかはともかくとして、マーティン・スコセッシによるこの映画もやはり「素肌に傷跡を隠し持つ者」達の物語であることに間違いはありません。ダニエル・デイ=ルイスの義眼、キャメロン・ディアスの帝王切開の痕、そしてレオナルド・ディカプリオが胸元に見せた無数の傷痕、それらの傷痕はただ其処にあるのではなく、それらに由来するそれぞれの物語と共に、傷痕の記憶が即ち物語であり、その物語がそれぞれが其処にある理由を教えています。ただ、これら表層に刻まれた複数の痕は、同様に復讐の物語でありながら、しかし、イーストウッドのそれらほど上首尾に機能しているとはとても思えません。思うに、その一番の理由は、此処に於いて最も肝心であるはずの傷、ディカプリオの頬に当てられた焼鏝のそれが、信じられないことに、その痕をまるで残さなかったからではないかと。其処に傷痕が残らなかった以上、復讐を果たす理由はおそろか、彼がスクリーンに在る理由すら怪しくなってくると、否、そう断言して話を終わらせてしまっても何の不都合もないのですが、しかし、それでは何かを疑われてしまうような気もするので、此処はもう少し考を巡らせることにしましょう。

 この映画は「傷痕を持つ者たちによる復讐の物語」であるのと同時に、また「時代の流れに抗いつつもその大きな波に飲まれてしまう小さき者たちの物語」でもあります。クライマックスの一連のシークエンスがよく出来ていると思うのは、入子状に配置されたそれら二つの物語の(色々な意味での)絡み合いが見事だからなのですが、しかし、どうしても疑問を抱かざるを得ないのは、やはりディカプリオの頬に傷痕が残っていないというそれ、何故ならば、此処に於ける傷痕の「ある/なし」は、後者のより大きな物語に於ける立場の違い分けるためのシルシのようなものなのであり(銃器の「ある/なし」がそうであるように)、身体に刻み込まれたそれらは「小さき者たち」がそれまでに培い共有してきた、そして今まさに崩壊しようしている何か(例えば価値観とか)を端的に表徴するものに他ならないからです。ディカプリオの頬に傷痕が残ってさえいれば、それら二つの物語がもたらす相互作用はより効果的だったに違いありません。もしこの不可解な事態が何の「間違い」でもなかったとするならば、此処に於けるレオナルド・ディカプリオとダニエル・デイ=ルイスは予め立場を違えていたということになるわけで、確かに、物語的結論が示す両者の立場は違いは明らかであり、一方が時代を生き抜き、もう一方は時代と共に滅び去って往く、なるほど、ディカプリオが始めから来るべき新しい時代を担った存在だったとするならば、其処に何らの痕を残さないのも道理、あるいはそういう物語だったのでしょうか?

 傷痕に関して、個人的にはダニエル・デイ=ルイスの「義眼」にも幾らかの疑問を、彼が義眼であることが分かるのは、私の記憶する限り、この映画の中で僅かに三回のみ、ナイフで自らの眼を突く(コツコツという音がしたはず)というなかなか刺激的な場面の他には、彼が最初にスクリーンに現われる場面と逆にスクリーンを去る場面の二度のクロースアップに於いて、確かに、その義眼は黒目の一部が欠けているという特殊なものではあるのですが、しかし、極端なクロースアップに拠らなくては義眼であることすら分からないというのは如何にも「弱い」感じです。そもそも「義眼」が何らかの恐怖感なり威圧感を増幅させるのは、それが(普通の眼とは違って)決してキョロキョロと動いたりしないからであって、ピーター・フォークの藪睨みが犯人を追い詰めるのもそれ故、その点、ミドルショットのダニエル・デイ=ルイスはまるで普通なのです。私なら(という前提が許されるのなら)義眼などではなく、眼帯を付けさせて文字通りの「片目」にしてしまいます。頬に派手な火傷痕を残した男と海賊のような眼帯をした男、私の発想は些か子供染みているのかも知れません。

 墓碑銘を連想させる些か大仰なエンドクレジットが終わりに近づいた頃、其処に現在のニューヨークのものと思われる音(喧騒とパトカーのサイレン)が重なる「演出」はなかなか気が利いています。印象的なラストショットも含め、これは(人間ではなく)むしろ空間、場所の映画であると、故にチグハグは人間模様は御愛嬌、なのかも。

 先行オールナイト上映の午前二時過ぎからの回、時間が時間ですからさすがに混雑はなかったのですが、それでもまあまあの入り、「レオ様」というのは相変わらず人気があるようです。こういう映画はしかし、今どきどうなのでしょうね。テレビCMや諸々の宣伝は実際の物語内容などまるでお構いなしに何処にでもありそうな安っぽい「愛」を前面に押し出そうと躍起になっていますが、そうでもしなくてはとても「ハリポタ」には太刀打ちできないと、そんなところなのかも知れません。この映画、興行成績は多分思ったほど伸びないのではないかと。


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