Index

 
グレースと公爵
監督:エリック・ロメール
2002年12月22日(シャンテ・シネ1)

 現実感への試み



 先頃「世界文化賞」の授賞式のために来日したゴダールが「近年のCG等の映像技術の発達は映画をむしろ退屈なものにしている」と云った趣旨の発言を、引用がいい加減な上に他でもないゴダールの発言ですから、その真意などまるで知れないのですが、とにかく今さら驚くような見識でないことだけは確かです。窮屈な制約がむしろ進化を促すという意味に於いて、ある時期までの映像表現(の技術)はむしろ科学技術の先を行っていたとも言えるわけで、科学技術が映像表現を遥かに追い越してしまった現在、もはや何かに追従し、制度の枠内に収まらざるを得ない「映画」がある種の退屈さを伴ってしまうのは致し方のないことなのかも知れません。しかし、状況がそれほど悲観的でもないのは、この映画などを観ればよく分かることで、それが他でもない、ゴダールの嘗ての(?)同僚の仕事であるというのがまた興味深いところです。

 映像表現に於いては、対象をより現実的(写実的?)に捉えたからと言って、それがより「現実感」を増すとは限りません。絵画の場合なら、その描き方が写実的であればあるほどより現実に近くなり、現実感もまた増すのですが、しかし、カメラのレンズが光を集めるそれは、何を為すまでもなく予め写実的なのであり、ただ其処に捉えられただけのそれらを比較する限り、現実との距離は常に等しく一定、その優位が嘗て映像表現の可能性に疑問符を付けたのは知れた話です。では、予め現実的である映像表現に於ける現実感とは一体どのようなものなのか、何年か前に流行った『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』という映画、あれが専ら「リアル」と持て囃されていたことに思い当たれば、映像表現に於ける「現実感」の正体も案外容易に知れるのではないでしょうか。其処にあった映像は画質も荒く酷い手ぶれが、予め備わっているはずの写実性すら抛棄したそれが持ち得た現実感とは、映像それ自体のものではなく媒体のそれ、つまり、その映像を撮った(ことになっている)道具、あるいは媒体が観客にとってより身近で現実的であった故に其処にある種の現実感が生じたわけです。手持ちカメラによるドキュメンタリー風の映像を「現実的」と感じるのも理屈は同じ、肝要なのは、手持ちカメラ独自の動きや手ぶれの類が直接的に現実感を引き起こすのではなく、観客それぞれが既に有している同種の映像体験がそれを引き起こしているということ、ドキュメンタリー映画なり報道番組の映像を見て、それらが紛れもなく現実を捉えたものであるということを予め知っているからこそ、それと同様の手法を用いて撮られた虚構に対しても現実感を錯覚してしまうのです。

 それと同様のことは黒白の映像がもたらすある種の錯覚にもまた言えます。それが「過去」を予感させるのは、我々が過去を振り返るとき、それが黒白の映像によって脳内に再現されるからなどでは決してなくて、実際に過去のものとして残されている映像が黒白である故、あくまでも「現実の体験」によってそれを認識しているのです。従って、色彩を意図的に抛棄した黒白映像が連想させるのは、漠然とした「過去」などではなく、映像が色彩を獲得する以前のある一定の時期なのであり、それはおよそ20世紀前半の記憶に一致するはずです。過去を再現した物語であっても、例えば、江戸時代を舞台としたそれを黒白の映像で撮ったとしても、しかし、其処には何の現実感も伴わないわけで、仮に何らかの連想が働くとすれば、それはむしろ昭和初期に多く撮られた「チャンバラ映画」の類であるという、何よりの証左ではないでしょうか。勿論、そういった体験を通して、それが単なる過去一般に置き替わってしまうのはよくある話で、映像によって再現される「過去」が専ら色彩を抛棄しているのもそれ故、あるいは、自身で振り返る過去が色を失っているように感じるのも、むしろ、黒白の映像に対する「現実の体験」が先にあればこそなのです。ドルトン・トランボが嘗てそうしたような、カラーと黒白の逆転が十分に有効なのも、つまりはそういうことなのです。

 例えば、18世紀のパリを忠実に再現したオープンセットがあったとして、それをカメラに収めて「これは18世紀のパリを撮った写真だ」と言っても誰も信用しないのは、光を集めて銀塩によってその像を焼き付ける技術がその時代に存在していなかったことを誰しもが知っている故、では、その同じ風景を油絵に描いて同様のことを言ってみるとどうか、10人中8人がそれを信用してしまっても何ら不思議はありません。この『グレースと公爵』に試みられているのもつまりはそれ、1940年代のパリを黒白映像で表現してみせるのと発想は同じです。勿論、だからといってそれを現実と錯覚してしまうような善良な人間など恐らくは何処を探してもいないわけで(何と言ってもその絵は動いてしまうわけですから)、こういうのはむしろ作る側の、映像によって何かを再現しようと試みる人間が常に持ち合わせているべき「誠意」の結実とでも、観客の多くが既に体験している現実(既知)を先進の技術(未知)によってスクリーンに収めてしまう発想の新しさ、柔軟性は、私が言うまでもなく、称賛に値すべきことでしょう。

 此処にはもう一つ「現実感」への試みが為されており、無声映画のような「字幕」や場面の切り替わりに用いられる「暗転」がそれ、それらは無声映画というより、むしろ初期の映画がその資産を受け継いだ「舞台演劇」を連想させるわけで、それもやはり観客の多くが既に体験している、観客にとってむしろ「現実的」な18世紀のフランスと言えるはずです。専ら室内で展開されるルーシー・ラッセルとジャン=クロード・ドレフュスの遣り取り、両者の如何にも大仰な「手の演技」は18世紀の人間が実際そうしていたということでは勿論なくて、あくまでも其処に舞台演劇的な意匠を持ち込むため、現実を模倣するのではなく観客が既に体験している、観客にとっての現実を模倣しているのです。18世紀のフランスを現実に体験した観客など何処にもいない以上、其処に現実感(もっともらしさ)を創出するために必要なのは、それを、絵画なり舞台演劇なりの、適切な媒体を介して再現することであり、その媒体とは、とどのつまりが観客それぞれの「体験」に他ならないわけです。

 枯れた色彩の室内で、カーテンやガウンなどの光を跳ね返す素材のものが異様な生々しさで目に飛び込んでくるのですが、否、何よりもそれが一番驚きました。

 公開二日目の日曜日の午後、何故か「ヌーベルバーグ御用達」の感のある日比谷シャンテの劇場はほぼ満席、まだまだ人気は健在ということでしょうか。しかし、観客の年齢層が圧倒的に高いのはさて、勿論、その物語内容の所為もあるのでしょうが、ロメールやリヴェットというのは、ゴダールがいまだにそうであるようには若い世代の支持を得られていないということなのかも知れません。個人的には何となく残念な気もしています。


Index