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SWEET SIXTEEN
監督:ケン・ローチ
2002年12月28日(新宿武蔵野館2)

 そして海へ至る



 スコットランド貧民層の厳しい現状を現実主義的な視点で捉えているのであろうこの映画、しかし、その暴力描写はそれほど「厳しい」ものでもなくて、例えば、主人公の少年がその母親の愛人と祖父からリンチを受ける場面、母親の愛人が派手に殴ったり蹴ったりという姿は確かにスクリーンに捉えられているのですが、しかし、殴られる側の少年はと言えば、その姿の殆どはフレームから外れていて(殴られている姿は)観客の目に触れないようになっています。否、これは「映画」ですから、実際に殴ったり蹴ったりするわけにいかない故の「トリック」の一種と言えばそれだけの話なのですが、ただ、こういった些細なことでも観る側の印象は随分と変わってくるもので、其処に「優しさ」を感じるなどと言ってしまうと幾らか語弊もあるのかも知れませんが(物語の最後に少年を海へ連れて行くそれは間違いなく「優しさ」です)、しかし、私に関して言えば、とにかくも「好感」を覚えたと、それは主人公の親友がドラッグをやる場面にしてもそう、丁寧に小分けされた白い粉末がスクリーンに生々しく映し出されることはあっても、しかし、それを吸引する段になるとカメラは些か遠慮がちにその視線を逸らしてしまうのです。否、それが単に映像倫理の作法であるに過ぎないにせよ、其処にある種の「現実」を切り取って見せる立場にある人間の、その「現実」に対する態度のあり様、真摯な姿が垣間見えるような気してしまうのです。

 世界をただ傍観しているだけなら何の危険に晒されることもなく平穏無事に時を遣り過ごすことができる、それが即ち少年が「少年である」ということ、この映画の前半、天体望遠鏡や双眼鏡、あるいはガラス窓越しに世界を俯瞰する少年達の姿が不自然なくらい多く捉えられているのですが(天体望遠鏡で土星を見る冒頭の場面、母親の愛人の麻薬取引の現場を目撃する場面、「ビッグ・ジェイ」の商売を観察する場面、フィットネスクラブで「ビッグ・ジェイ」の姿を最初に目撃する場面等々)、それが正しくその状況を明示したものであるのは言うまでもありません。確かに、彼らは十分に危険な世界と積極的に関わろうとしているようにも見えるのですが、しかし、彼らはあくまでもガラス越し、レンズ越しに予め状況を伺い、その可能性の範囲を探ってから漸く冒険を試みるのあって、その限りに於いてはまだまだ安全、決定的な事態に至ることなどあり得ないのです。それは女性に対する態度にしてもそう、姉の友人であるスーザンという女性の姿を窓越しに追い掛けるというユニークな場面が何度かあるのですが、それなど正に象徴的と言えるのではないでしょうか。そして、そのような状況として物語的に最も重要な意味を持つのが母親とのそれ、(ハリウッド映画のそれとは些か勝手が違うようですが)あくまでも刑務所の中にいる母親と「間接的」に触れ合う限りに於いては、何に裏切られることなく、当たり前のように希望を抱いて時を待つことができたのです。

 物語後半、二つの破壊行為が状況を一転させるのは、それまで少年達を「世界」から遠ざけてきたもの何であったかに思い当たれば容易に察し得ることです。母親の愛人を探すために自宅に戻った主人公が外から石を投げて窓ガラスを割ってしまう場面、逡巡しているのか、あるいはただ単にふざけているのか、なかなか石を投げない少年の姿が「サスペンス」を生むのは、その動作が象徴的に示す映画的な意味を観客がよく了解しているからに他なりません。そして、もう一つの、主人公の親友がフィットネスクラブのガラス張りの玄関を破壊してしまうそれは、その場面の持つ物語的な意味以上の深い絶望感を観客にもたらすことになります。そうした状況の変化が「大人になること」と決して無関係でないのは、その直前に起こる一連のシークエンス(髭剃り、飲酒、そしてナイフを手にした文字通りの「通過儀礼」)が教えるものであり、否、あるいはむしろ一連の「儀式」を完結させるものとして、それらガラスは破壊されたとみるべきなのかも知れません。何れにせよ、それを契機に、物語前半に多くみられたようなガラス越しの場面は一切なくなるわけですが(スーザンとも肩を寄せ合ってパソコンの画面に向き合います)、しかし、その後の物語が教えるように、その事態は、漸く十六歳の誕生日を迎えたばかりの少年には幾らか早過ぎたということなのでしょう。

 この映画がその冒頭から観客を引きつけて止まないのは、疾走感、躍動感に溢れる魅力的なタイトルバックのシークエンスから一転して停滞感、閉塞感に満ちた自動車の場面に切り替わり、それが文字通り「物語の始まり」を見事に告げているからです。これは少年が自動車の外から内へとその所在を移動させる表層の変化にも大いに関係があって、警官のヘルメットを盗んで、まさに風を切って走っていたそれが、動かない横顔と無表情に過ぎて行く車窓の景色に置き変わったことによって生まれた映像のダイナミズム、その素晴らしい瞬間に何かを期待せずして、一体何を「映画」に期待するというのでしょう?

 さて、色々と煩わしいことを書き連ねてしまいましたが、これはスコットランド特有の陰鬱な薄曇りの空(出所した母親をアパートに迎えるという物語的に最も晴れがましい場面に於いてさえ、窓の外には激しい雨が落ちています)と、クリッシー・ハインドの歌声がいつまでも頭を離れない、一言でいえば、そんな映画です。

 公開初日の土曜日の午後、狭い劇場ですが、ほぼ満席だったのではないでしょうか。イギリスのある種の文化を連想させる風貌の若者が散見されたのは、おそらくは偶然などではないのでしょうね。ところで、こういう映画の「リアリスム」というのは色んなところに隠れているのだと思うのですが、しかし、一番のそれは、単純に少年どものあの貧相なナリとお世辞にも美人とは言えないお姉さんのあの容姿ではないかと改めて思ったりするのですが、ただ、どんな映画であっても決して「現実」を持ち込まないのであろうと思われるのは赤ん坊のそれで、この映画でも当たり前のように可愛らしい赤ん坊が登場したりするわけで、やはり、未来を予感させる「最後の希望」だけは、仮に現実を多少逸脱しても、そういうふうに見せるというのが、現実主義に於ける「良心」というものなのでしょうか。


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