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白と黒の恋人たち
監督:フィリップ・ガレル
2003年1月3日(シネセゾン渋谷)

 空間と視線、映画



 ロバート・ワイズの『サウンド・オブ・ミュージック』という有名なミュージカル映画の中のクリストファー・ブラマーが「エーデルワイス」を歌うやはり有名な場面、この一見して和やかな場面が、しかし、何とも言えない「サスペンス」を孕んでいるのは、クリストファー・ブラマーの視線がゆらゆらともどかしげに揺れている故、間もなく歌い終わろうとする彼の視線が果たして誰のところに辿り着くのか、結果は御存知の通り(婚約者ではなく)ジュリー・アンドリュースのところに、その選択がその後の物語展開に大きな意味を持つのもやはり御存知の通りのことだと思います。カメラはただギターを抱えたクリストファー・ブラマーを捉えているだけなのですが、その見えざる視線の先に予感されるものが場面にただならぬ雰囲気を醸し出しているわけで、これこそがまさに「映画」であると、その優れたミュージカル映画の素晴らしさはそんなところにもまたあるのではないかと思っています。さて、フィリップ・ガレルのこの映画にもそれと似たような場面があって、カフェで女性二人と向き合うメディ・ベラ・カセムがジュリア・フォールを「選択」する場面、他愛もない言葉の遣り取りとは無関係に、彼の吸い込まれるような視線がその結論を雄弁に物語ってしまうのです。それに続く、既に何度か逢瀬を重ねたのであろう二人が街中で待ち合わせをするという場面が嫌みなくらい「自然」なのも、偏にその視線のショットが有効である故、否、考えてみればこの映画は窓の外を見下ろすメディ・ベラ・カセムの視線のショットから始まっているわけで、ガレルが新聞に掲載された写真を見て俳優としては素人も同然の彼を主役に抜擢した理由も、あるいは彼のその視線を送りだす魅力的な眼にあったのかも知れません。

 以前、同じフィリップ・ガレルの『夜風の匂い』に関する文章で「過去形の空間」ということに言及したのですが、此処にも、『夜風の匂い』ほどではありませんが、やはりそのようなものが何度かスクリーンに捉えられています。視線の対象がいなくなった後に視線だけが其処に残る、改めて思うのは、ガレルは其処にまさに「空間」を捉えているのではないかということであり、あるいはその視線の対象はそもそもがその「空間」にあったのではないかとさえ、それは「ロマネスク」などと言い切ってみせるフィクションの向こう側にあるのであろう彼の過去に関わる「現実」と深く結び付くもの、劇中の台詞で「またキャロルか」と言わせてしまう彼にとっての「映画」とは、もはやそれなしではあり得ないということなのかも知れません。カメラの横で劇中劇を見つめるメディ・ベラ・カセムの視線がそのままこの映画を見つめるガレルの視線に、そう考えてみると、メディ・ベラ・カセムのその眼差はこの映画にとってますます重要なものに思われてくるわけで、ガレルとは実年齢の大きく離れた若者達によるフィクションが其処にあるにせよ、其処に捉えられた「空間」とそれを見つめる「視線」は、もはやそのフィクションからも遠く、それこそガレルにとっての「映画」そのものと言えるのかも知れません。

 ケン・ローチのそれでは明らかに直接的な描写を避けていた「ドラッグの吸引」が、此処では(当たり前のように)生々しくスクリーンに捉えられています。実際、物語の中でもヘロインの害を如何にして観客にアピールするかということが繰り返し語られているのですが、例えば『あの頃、ペニー・レーンと』のそれのような、ドラッグと死がまるで結び付かず、ともすれば「好意的」であるかのようにも見えてしまうのは論外としても、ただ単にそれを否定するばかりでは、しかし、余りにも「体制的」で、むしろ若者の反発を買ってしまうという、こういうのは案外難しいものなのだと思います。まだビートルズに籍を置いていた頃のジョン・レノンが「コールド・ターキー」というドラッグソングを発表して、他でもない「体験者」である自分がその悲惨さを語ることによってそのことをよりアピールできるといった趣旨の発言をしているのですが、その意味に於いてはガレルも十分な有資格者、この場合「ロマネスク」なフィルターがむしろ邪魔になっている感は否めないものの、しかし、それを訴えるべきこの映画が、血の「赤」を表現し得ない黒白の映像によって撮られているのも、なるほど、まさに「残忍な無邪気さ」とでも呼ぶべきヘロインの「白」を其処に生々しく焼き付けるためだったのかも知れません。

 公開から既に何週か経っている正月三日のレイトショー上映、冷たい雨の降り頻る中、当然客席は疎らだったのですが、それでも二十人くらいはいたような気がします。その疎らな劇場に大鼾の客が二人、正月にわざわざ映画館にまで足を運んで大鼾とはさて、歌舞伎町のオールナイト上映での話ならまだ分かるのですが。それにしても、この映画の原題は劇中劇のそれと同じ「残忍な無邪気さ」(を意味するフランス語)なのですが、どうしてそれをわざわざ変更してしまったのか。『白と黒の恋人たち』という邦題も別に悪くはないのですが、劇中劇のそれと映画自体の表題が一致しているという本来の構造を無視してしまうのは些か疑問が残るところです。


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