Index

 
ゴーストシップ
監督:スティーブ・ベック
2003年1月12日(新宿東急)

 彷徨える老婆心



 謎の多い閉ざされた空間に予め数の限られた人間が乗り込んで行く、多少映画に慣れた人ならば、大した予備知識などなくともこれがある種の「サバイバル映画」であると直ぐにも了解するはず、誰がどういう順番で死んでいって誰が最後に生き残るのか、と、些か悪趣味な見方かも知れませんが、この類の映画をそんなふうに観ている人は決して少なくないはずです。では、一体どういう人物が生命のあるままエンドクレジットを迎えることができるのか、やはり多少慣れた人なら出演者の顔触れをみれば大凡の察しはついてしまうのでしょうし、この映画の場合など、それら人物群に関して一つ分かり易いの特徴がありますから、その意味に於いては些か面白味に欠けてしまうのかも知れません。ただ、そんなことを言ってしまうと話を続けられなくなってしまいますから、この際それは措いておくとして、例えば、幽霊船に乗り込むその7人の男女、彼らの海難救助隊員としての仕事ぶりは(物語的に)一応紹介されはするものの、しかし、それは物語を進める上での最低限の「礼儀」といった程度のもので、それ以上の、彼らに纏る(陸の上での)何らかが其処で語られることはないのですが、そのことが物語の悲劇性を減じてしまう(人物の詳細が描かれないため感情移入が起こり難く、その死に際しても、その悲惨さに恐怖を覚えることはあっても別に悲しいとは思わないということ)のは間違いがないのですが、一方ではそのことが彼ら7人の立場を平等なものにしている(故に死ぬ順番を観客に容易に悟られない)とも言えるわけで、否、7人それぞれの人となりをそれなりのエピソードを配して平等に物語ることも勿論可能なのですが、そんなことをしていては時間が幾らあっても足りませんし、敢えてそうしないことによって観客をむしろ感情移入という動作から遠ざけるという方法もあって、この映画が実際そうしているのであろうことは、これが他ならない悪趣味な「サバイバル映画」であることの何よりもの証左と言えるわけです。語弊があってはいけませんから、念のため付け加えておくと、此処に於ける「悪趣味」という表現は決して悪い意味で用いているのではありません。

 単純な話、何であれ其処にある「謎」をより深く、そしてより正しく理解した(する予定の)人物がより長くスクリーンに映っていられるわけで(探偵モノのミステリーで、事件の謎を解くべき探偵が途中で殺されたりしないのと理屈は同じ、それを途中で殺して物語を渾沌に陥れるのが黒沢清の幾つかの映画)、この映画の場合もやはり例外ではありません。ただ、此処で肝要なのは、その謎と向き合うのが幽霊船に乗り込む7人だけではないということで、8人目のそれというのは勿論スクリーンと対座するそれぞれの観客のこと、そして其処にある様々な謎に対する観客とそれ以外の7人の理解の誤差が、このような映画の場合、非常に重要となってくるのです。ある事実に対して、観客は知っているがスクリーン上の人物は知らない、そんな事態に出会したとき、それこそがまさに「サスペンス」が生まれる瞬間なのであって、この映画に於ける観客の「アドバンテージ」が映画冒頭の、過去の事実に関わる(映画的に時空を超越した)シークエンスによってもたらされているのは、今さら言うまでもないことでしょう。観客は嘗て其処で起きたのであろう事実(の一部)を知り、それが「幽霊船」に他ならないという認識に立って、今まさにそれに乗り込もうとする(そんな事情などまるで知らない)7人の男女を見守るわけで、ただそれだけのことで得も言われぬ不安を感じてしまうのも、あるいは「よし、オレが一番前を歩くゾ!」という命知らずな言葉が場面に緊張を走らせるのも、つまりはそういうことなのです。

 他の誰よりも早く何かを目撃してしまうジュリアナ・マルグリースが予め特権的な存在であるのはもはや誰の目にも明らかなこと、しかし、それだけが彼らの運命を分けるわけではありません。此処に於ける「謎」と真正面から向き合うには、先ずは其処に展開される「超常現象」を信じることから始めなくてはならないのですが、では、それに関して何故ジュリアナ・マルグリースだけが特権的であり得たのか、「女性だから」というのが一番座りの良い理解なのですが、穿った見方をすれば、今どきそんなふうな理由付けは単に映画館の外を囂しくするだけ、宗教や信心の問題を持ち出してもやはり同様でしょう。ならばどうするのか、この映画が案外ユニークなのは(否、単に莫迦らしいだけかも知れませんが)その差別化の仕方にあって、全員が同じような時間にそれぞれの場所でそれぞれに何らかの「異常」を目撃する一連のシークエンス、ジュリアナ・マルグリース(ともう一人)以外はアルコールを口にしているか、あるいはそもそもが大したものを見ていないかという何とも無様な状況なわけで、目の前に起こっていることを単なる幻想に過ぎないと思い込んだり、あるいは酔いの所為でその挙動を疑われてしまったり、謎と向き合うどころか、そもそも現実に正しく目を向ける機会すら奪われているのです。半ば冗談のような話にもなりますが、その前の段階で既に死んでしまっている1名の除けば、そのときに酔いが深かった順番(即ち目撃したものを現実と信じる度合いが低かった順番)に生命を落としているとも、何れにせよ、そのような状況がそれら超常現象を紛れもない現実であると理解している観客にもどかしさを抱かせるのは既述の通り、そして、その謎と向き合うことを唯一許されたジュリアナ・マルグリースが観客とほぼ同レベルの理解に達したとき、それまでのような「サスペンス」は消滅し、物語はまた新たな展開、観客すらもいまだ知り得ていない残された謎の解明へと転じていくことになるわけです。しかし、其処にはもはや「サスペンス」など存在せず、何故なら、その新たな展開に於いては、他でもないジュリアナ・マルグリースが観客を謎の解明へと導く言わば「ナビケーター」の役割を担うことになり、(そのような状況の常として)もはや生命を落とす不安からは遥かに遠い存在に転じてしまうからです。

 さて、この映画の一番の問題は、ジュリアナ・マルグリースと観客が其処に隠された謎に対しての理解を同じくするその仕方にあります。確かに、物語的な、その結論としてのある種の「ハッピーエンド」との連関に於いて、そのようなこともあるいは必要だったと言えるのかも知れませんが、しかし、ジュリアナ・マルグリースと観客が寸分違わぬ事実を目撃してしまうというあの「再現フィルム」のやり方は、どう考えても余りにも安易です。航海日誌や写真、残された死体等々の状況、其処に乗り込んだ彼らにとって幽霊船はそれこそ「宝の山」なのですから、ジュリアナ・マルグリースが何らかを理解する仕方にしても、そういった断片的な事実の組合せによるもので十分なはず、勿論、観客に対してはそれではまだまだ足りませんから、実際、冒頭のシークエンスがそうであったように、もっと「映画的」なやり方で観客にそれを見せれば良いだけの話、そして、余り現実的ではないにせよ、観客が実際に目撃したのと同程度の理解をジュリアナ・マルグリースがその頭の中でしたということにしてしまっても何の問題もない、否、娯楽映画などそもそもがそういうものなのです。そうすれば、其処に残されるかも知れない微妙な齟齬が「サスペンス」の持続を促すことにもなるわけで、幽霊のやることになど文句を付けても詮無いのですが、しかし、些か老婆心が過ぎるのではないかと。

 この映画、カット割が細かいというほどでもないのですが、案外カットの切り替わりが多くて、否、こういう映画ですからそれはそれで別に構わないと思うのですが、ただ、冒頭のシークエンスだけはもう少し、限りなくワンショットに近いような撮り方をしても良かったのではないかと。実際「色彩」に関しては、それ以外の場面との差別化がなされているわけですし、それでなくても、優雅な音楽が流れる豪華客船のダンスパーティーの場面、どうしても流れるようなカメラワークを期待してしまいます。仮に映画全体からみて違和感が生じてしまうにしても、しかし、そのシークエンスの意味するところなど(それが幽霊船に関する映画であるという程度の予備知識は持っているであろう)大抵の観客は既に了解しているに違いありませんし、むしろ違和感こそが肝要であるとも、何となく中途半端な印象を受けてしまいましたね。

 公開二日目の日曜日の午後、客席は三分の一くらいが埋まっていた程度でしょうか、それでも案外入っているような気がしてしまうのは、此処最近に観た、例えばこれと同じ劇場の同じような条件下で観た『プロフェシー』や『ブラッドワーク』のそれが余りにも悲惨だったからなのかも知れません。映画館を離れて新聞やテレビの報道など見る限り、一昔前と比べて、娯楽映画を取り巻く状況は何となく明るくなってきているような気もするのですが、実際には、一部の映画が(大衆心理と結び付いた、つまり映画そのものとはまるで関係のない)ヒステリックなブームを巻き起こしているというだけの話であって、全体でみればどれほどのものでもないのかも知れません。否、勿論、その一部の映画に難癖を付けるつもりは毛頭なくて、それらの映画界全体に対する貢献度は計り知れないものがあると思っています、念のため。


Index