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アカルイミライ
監督:黒沢清
2003年1月18日(シネ・アミューズ)

 未来への逸脱



 ガレージを飛び出したオダギリジョーを藤竜也が慌てて追い掛ける場面、ガレージの外に出た藤竜也を(高い鉄塔の上にでも据えたのでしょうか)カメラは極端な俯瞰ショットで捉えているのですが、その俯瞰ショットが其処に「映画的」に捉えた現実、河の向こう側に当たり前な都会の風景があって、その此方側には解体された自動車が堆く積み上げられた廃車処分場と藤竜也のガレージがあるというそれが、物語の終わり近く、ガレージの屋上に上って其処からは何も見えないことを発見するオダギリジョーのそれに呼応しているのは言うまでもないことで、つまりこの映画は、その「特権」を行使して、其処に「アカルイミライ」の手掛かりを示唆することを決して抛棄していないということです。

 少し前に書いた『ギャング・オブ・ニューヨーク』に関する文章で「冒頭のタイトル表示があったのかどうかよく憶えていない」といったことを書いたところ、その映画を御覧になって私のそれを読んでくれたという方が「冒頭のタイトル表示は確かになかった」と親切な御指摘を、何となく気持ちの悪い思いをしていたのですが、それも無事解消されました。さて、この『アカルイミライ』もやはり冒頭のタイトル表示がなくて、スコセッシのそれと同様、物語の終わり、エンドクレジットの前にそれがスクリーンに現れるのですが、別に流行っているわけでもないのでしょうが、本来、慣習的に映画の冒頭に示されることになっているそれが、別の場所にあるというのにはやはりそれなりの理由があるはずで、スコセッシのそれの場合なら、差し当たり、映画の出演者やその物語を生きた(虚構の)人物群、延いては現実に其処に生きていたのであろう有名無名の人達の墓碑銘をスクリーンに刻み込むかのような(様々な意味で物語の終わりに置かれなくてはならない)エンドクレジットとの整合性を得るためにそうせざるを得なかったのではないかと想像できるわけで、では、『アカルイミライ』の場合はどうかと言うと、これはもう少し分かり易くて、スコセッシのそれに感じてしまったような違和感もなく、むしろそうであることが当然であるような「自然さ」すら感じさせます。そもそも映画、あるいはカメラによって其処に収められた何かというのはあくまでも「過去形」のそれであり、それが仮に未来に関する物語であったにせよ、其処にあるのはあくまでも「嘗てカメラの前にあった」何ものかであるに過ぎないわけです。従って、あらゆる映画は「過去」という時制の中に止まらざるを得ないわけで、今現在私がそうしているような、そもそもが「過去形」のそれを反芻する行為になど何一つの「未来」もなくて、もし仮に映画に「未来」があるとするならば、それはいまだ観ていない(観られていない)映画に対する何かなのであって、確かに、『アカルイミライ』という映画の存在を知りつつも、いまだそれを観ない向きに於いて、それは一つ「未来」であり続けるのかも知れないのですが、しかしその体験の欠落ほど虚しいものもまたありません。勿論、今此処で問題にしていること、物語の終わりにタイトル表示が為されるというそれが、映画が「観られる」ことによって「過去」に追いやられてしまうというある種の「宿命」に抗うためのものであるなどと言いたいのではなくて(それは余りにも虚しい努力です)、それは何であれ我々にとっての「未来」がその物語の後にある、映画館の暗闇を抜け出したその先にあるものこそが「未来」であると示唆しているのではないかと、単純な話、「其処から始まる」ということです。そのエンドクレジットに重なる舗道を歩く少年達を捉えた長回し、特に車道に降りてからの、観ている者に威圧感すら与える正面を見据えた少年達のそれは、まさに「未来」を見据えた歩みと言えるのでしょう。この映画では何かを選択した人間はスクリーンからその姿を消してしまうことになるのですが、物語的な「死」が余地なくそうしてしまう浅野忠信や、既に選択の機会を失してしまった藤竜也が最後までその姿をスクリーンに留めるのとは違い、オダギリジョーのそれは、其処に「未来」に関わる何らかを見出した人間の必然として、その「過去形」でしかあり得ない空間を逸脱した故の、其処に留まる以上「過去」という時制に繋ぎ止められてしまうスクリーンからの脱出を企てた結果に他なりません。その意味に於いては、まるでスクリーンの外に向かってその確かな足取りで歩を進めているかのような少年達が、それでもしかし最後までスクリーンにその姿を留めているのは、彼らがいまだ「未来」を見出し得ない存在であるからに相違なく、彼らのそれもやはり「其処から始まる」ということなのでしょう。蛇足ながら、物語的にもう少しオダギリジョーのそれに関して考を巡らせるとするならば、例えば、ファストフード店で少年達がたむろするその場所にゆっくりと忍び込んで行く視線の見えざる主体がそれを予感させるように、オダギリジョーにとっての浅野忠信がそうであったような立場を、それこそ『CURE』の役所広司の如く、その少年達(に象徴される世代)に対して引き受けたというふうにも考えられなくもありません。物語の解釈論など然して意味もないと思いつつ。

 以前に為された何かのインタビューで「あとやっていないことが何かあるとすれば、それはスクリーン分割だけだ」と監督自身が発言していたその「スクリーン分割」の応用が試されているのが、藤竜也が運転席に座る小型トラックのフロントグラスを正面から捉えたショット、其処に何かの「断絶」を発見するというのもそんなに悪くない見方なのだと思うのですが、しかし、何よりも其処に確かなのは、助手席に誰も座っていない状態が明らかに不自然に映ってしまうということであり、そうしていない(スクリーン分割していない)ショットと比べて、遥かにその「不在」が際立つということです。毒クラゲのそれであるとか其処に過剰なくらい鏤められた暗喩の類になど今さら言及するつもりはありませんが、世代間の「接触」が時として「死」をすら意味してしまうこの映画に於いて、スクリーンの分割はその事態を周到に回避する(予め断絶しているのではなく、映画的な意志として両者を引き離しているとでも言うか)と同時に、その何れかの不在を否定し、言わば「共存」のあり様の一つを示唆しているとも言えるのでしょう。ただ、そうした理解を得る過程に於いて、やはりどうしても触れざるを得ないのが、藤竜也とオダギリジョーの間でなされる「抱擁」のそれ、その一時の和解です。そもそも映画に於ける、その決定的な場面に於ける「抱擁」とは一体何なのか。この映画が案外分かり易いのは、藤竜也がその抱擁の後に「養子縁組」を思い付くということにあって、それは男女の抱擁が予感させるある社会的制度を容易に連想させるもの、つまり、映画に於ける「抱擁」はそれら両者に於ける「永遠の和解」を意味する場合が多く(北野武のそれですら「死」という不幸なカタチによってであれ、其処にやはり「永遠の和解」を約束していました)、その意味に於いて、実際、その後「養子縁組」の話など端から取り沙汰されないように、其処に於ける「抱擁」は明らかに異質なもの、なるほど、其処に繰り返し発せられる藤竜也の「許す」という言葉が何かを約束しているようにも思わせるのですが、結局それが(少なくとも物語の表層に現れるものとして)裏切られるのはその後の物語が指摘する通りです。それでもしかし、其処にはその後も再びその両者に於ける決定的な「接触」の場面が訪れるわけで、それはクラゲの毒で気絶した藤竜也をオダギリジョーが川から引き摺り上げるというそれ、それは物語前半では「死」をすら意味していた(その何れかが其処を立ち去らねばはならないという非=共存の状態)それが徐々に融解していく過程を示唆すると同時に、藤竜也があくまでも意識を喪失した状態であるというところに、必ずしも和解があり得たわけでもない、スクリーン分割のそれと同様の、些か変則的な共存のあり様が指摘されていると言えるのかも知れません。結局それは「分かり合えない故に為される抱擁」とでも呼ぶべきか、もはや「社会」あるいは「制度」の仲介などあり得ない両者が、互いにその存在を確認し合う唯一確実な手段はその肉体に直接触れる以外には残されていないという、しかし、それはあくまでもその存在を確認するためだけ「儀式」に過ぎないと、あるいはそんなところなのかも知れません。

 深い海の底にあるかのような刑務所の面会室と(水槽の)エアポンプのモーター音が鳴らす通奏低音、やはり海の底を連想させるボーリング場を鈍く照らす深いブルー、人気のないゲームセンター、刑務所の面会室の仕切りを真横から捉え、本来其処にあるはずのない「境界の終わり」を見せてしまう遊戯的試み、今さら指摘するまでもない黒沢清の世界が此処にもやはり広がっています。「黒」が強調されたデジタルビデオの映像は、あるいは嘗てスクリーンに紛れもない「影/陰」を落としていた黒白映画のそれがイメージされているのかも知れません。

 公開初日の土曜日の夜、本来は夕方からの回を観るつもりでいたのですが、午後3時過ぎの時点で既にその回の整理券が尽きてしまっていたために、致し方なく回を一つ遅らせることに、勿論、私の観た回も満席で、今の上映規模のままなら、当分はこれに近い状態が続くものと思われます。これは『回路』のときに体験した「悲惨」とは遥かに遠い映画館の状況なのですが、しかし、それは単に上映規模の違いが何かを錯覚させているに過ぎないだけの話で、全体の動員数だけをみれば『回路』を遥かに下回っているであろうことは言うまでもないことでしょう。勿論、引算をして其処に残る何かを比較するという話なら、また事情は違ってくるのでしょうが。ところで、シネアミューズの小さなスクリーンは多いに不満なのですが、しかし、このデジタルビデオの映像には案外このくらいのスクリーンの方が合っているのかも、確かに、千人の劇場の大スクリーンでそれがどのように見えるのかというそれには大いに興味を惹かれるのですが、しかし、恐らくは酷い「違和感」に苛まれてしまうだけのことでしょう。


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