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黄泉がえり
監督:塩田明彦
2003年1月19日(新宿コマ東宝劇場)

 映画を崩壊させないために



 物語の後半、病院の廊下で山本圭壱とその兄、そして哀川翔の三人が会話をする場面があります。スクリーン向かって左側(の壁際に置かれたベンチ)に山本圭壱、右側に小さい娘を抱えた哀川翔と山本圭壱の兄がいて、「黄泉がえり」の存在意義に関して、物語的にそれなりに重要な言葉の遣り取りが行われます。では、この場面をカメラはどのように捉えているのかというと、その廊下の奥からのロングショットで、場面の終わりの方の数カットを除いてほぼワンカットに収めているのですが、なるほど、「ロングの長回し」というのは、一般に「作家性が高い」と評されている類の監督が好んで採用する傾向があって、おそらくはその類に属するのあろうこの監督が「作家性」を発揮する場面などとても思い付かないこの映画にそれを持ち込んでいると、そんなふうに得心しておくこともできるのかも知れません。しかし、この場面がそのように撮られている理由はもう少しマシなところにあるようにも思われます。此処は物語的にも重要な言葉の遣り取りが為される場面で、決して観客を笑わせるような場面ではありません。つまり、思うに監督は、此処でそれなりに重要な台詞を発する山本圭壱の顔を(それに合わせて)クロースアップで捉えたり、あるいは(俳優として素人も同然で、そんな場面を与えると如何にも張り切ってしまいそうな)彼に「演技」をさせてしまうような撮り方をしたくなくて、実際の熱の籠った言葉の遣り取りむしろ冷ますかのような手法、即ち「ロングの長回し」を採用したのではないかと想像するわけです。私などはそれこそ素人ですから、彼の演技が上手いのか下手なのか、俳優としての才能があるのかどうかなど正直なところまるで分からないのですが、しかし、間違いなく言えることは、スクリーンに映し出された彼のクロースアップや一所懸命な「演技」が、それと対座する多くの(若い)観客達に、この映画とはまるで関係のない別のこと、テレビで日常的に目にしている彼の本職のそれを(必要以上に)想起させてしまうであろうということです。繰り返しになりますが、これは彼の演技の質とはまるで関係がない話で、ある意味もう仕方のない、彼を配役した時点から決まっていたようなこと、しかし、それは他の出演者にも当然言えることなのですが、その配役によって得るものと失うものの差し引きの問題で(実際、成功を収めそうな)興行のことを第一に考えれば決しておかしな選択でもなくて、私としても、そのことをとやかく言うつもりはまるでありません。肝要なのは、そのような「御仕着せ」と映画の質を維持すべき立場にある人間、つまりは監督が如何に折り合いを付けるかということで、此処に引用した場面が示唆するのは、この映画の監督が其処に見事な折り合いを付けているということに他ならないのです。黒沢清がその最近作に関するインタビューで、ある種の状況を映画に持ち込んでしまうと「映画が崩壊してしまう」といった趣旨の発言をしているのですが、多少意味合いが違いますが、此処に於けるそれも、ともすれば「映画が崩壊してしまう」ような状況であることに変わりはなく、塩田明彦というこの映画の監督は(何を損なうことなく)それを見事に回避したと、そう言えるのではないでしょうか。似たような場面は他にも幾つかあって、例えば、この映画のクライマックス、草ナギ剛と竹内結子が人気のない場所で互いに向き合って(最後の)言葉を交わし合う場面、其処に横たわる物理的な距離とそれを捉えるカメラの抑制(の利いた挙動)もやはり先のそれと同じような「機能」を発揮しているわけで、そして何よりも、此処に特筆されるべきは、北野武が、黒沢清が其処に許してしまった「抱擁」を、塩田明彦は決して許さなかったという事実、今まさにそれが起ころうとした刹那、竹内結子はまるで「映画を崩壊させない」ためであるかのように草ナギ剛の腕からこぼれ落ち、スクリーンからその姿を消してしまうのです。

 北野武の最近作の中に、浜辺を歩く深田恭子と武重勉を横移動のロングショットで捉える場面があったのですが、そのショットの「異常さ」は、浜辺を歩く人物を海の側にカメラを据えて撮っていることにあって、この場合の「正常さ」が浜辺の側にカメラを据えて海を背景に人物を撮ることにあるのは言うまでもないことです。この映画にも似たような場面があって、浜辺を歩く草ナギ剛と伊勢谷友介の横移動のミドルショットをやはり海の側から、波の音が聞こえていますから、其処が間違いなく海(のある浜辺)であることは観ている側にも分かるのですが、しかし、どうしても違和感を覚えてしまう、と思っていたら、その場面の状況や其処に重なる「言葉」に反応してカメラがグルリと回転、今度は海を背景に3人に数が増えた彼らがロングショットで捉えられるという、この一連の場面はワンショットで撮られているのですが、美しいショットの多いこの映画に於いても、特に美しく印象に残る場面と言えます。北野武のそれに何らか理由があったのかどうかは分からないのですが、此処に於けるそれには間違いなくそうする意味があって、観る者を惑わせる違和感が、振り返って其処にある海の広さ、美しさを際立たせることになると、空間を把握する感覚とでも言うか、優れた何かを認めざるを得ません。また、この場面に関してはもう一つ言及すべきことがあって、このショットに続くのは草ナギ剛がホテルの自室で眠っているショットで、それはつまり、その浜辺の長いワンショットが他でもない彼の見ている夢であるということを示唆してわけなのですが、実は、この映画にはもう一箇所、同様の「過去」が回想される場面があって、その場面もやはりそれを夢に見る竹内結子の寝顔を捉えたショットから導入されるという実に親切な方法が採られています。この親切さ、分かり易さは、ある程度映画に慣れた人には少し異様な感じもしてしまうような気がするのですが、これもやはり「折り合い」の一つなのかと、何となくそんなことを思いました。考えようによっては、これは物語的に重要なある事実を誤魔化すための「辻褄合わせ」のようなものとも言えるのですが、それは多分深読みが過ぎるのでしょう。

 何を説明するでもなく、其処にただ捉えられているに過ぎない長澤まさみの視線がすべてを言い尽くしてしまう物語、あるいは、カメラが執拗にそして力強く村井克行を捉えるというただそれだけのことで、其処に秘められた多くを予感させてしまう物語、それはそれが至るのであろう物語的結論をすら容易に想像させてしまいます。其処に捉えられた誰かの視線と誰かを捉えた余りにも映画的な視線、物語的な意味に於ける「想念」ともまた結び付くそれだけで十分に物語を成立させてしまうその豊饒さは、否、まさに「映画」であると、ひたすらに感動を覚えるばかりです。これは余談の類ですが、そんなふうに「正しく」この映画を観ていると、多分予め意図されたことなのだと思うのですが、物語的結論のある一つに関してまんまと裏をかかれてしまう可能性があります。また、私はこの文章の終わりの方で「この映画は子供には勿体ない」といった趣旨のことを書いているはずなのですが、その具体的な根拠を一つ。これを観た帰りの電車の中で、やはりこの映画を観てきたらしい高校生のカップルと偶々乗り合わせて、村井克行を捉えたショットとその物語に関して彼らが話をしているのを耳にしてしまったのですが、彼らは其処に予感されるべき物語をまるで諒解していなかったようで、従って、其処に訪れた物語的結論にしてもまるで予想外の事態だったよう、それはそれで一つの愉しみ方ですから、私がどうこう言うのもまた無粋な話なのですが、否、別にこれは私の映画でも何でもないのですが、しかし、もう少し何かが分かっている「大人」にこそ観てもらいたい映画であるともやはり思ってしまいます。

 何処か懐かしい、行定勲が『ひまわり』で見せた「わざとらしさ」など微塵も感じさせない中学校の教室に差し込む眩しい光線、雨の日の暗い病室を窓の外から照らす「緑色の光線」、あるいはゴダールやヒチコックの映画的記憶等々、細部に拘れば枚挙に遑がないのですが、何にせよ、私などが何かを書こうとするとそんな話ばかりになって総体としてそれがまるで見えてこないのですが、とにかく、私が映画館の暗闇に身を沈めたおよそ二時間のそれは紛れもなく良質なフィルム体験であったと、それだけは忘れずに書いておかなくてはなりません。

 公開二日目の日曜日の夜、私は世の事情になどまるで疎いと言うか、「スマップ」とは言ってもとても人気があるとは思えない人の主演ですし、大した混雑もないであろうと高を括っていのですが、しかし、実際には酷い混雑で、比較的広い劇場もその殆どの席が埋まっていました。実際良い映画ですから、何であれ人が集っているという状況に不満などあろうはずもないのですが、しかし、私が成人映画専門の劇場に入る女子高校生の心持ちで其処に座っていたという状況から察し得る通り、とにかく周りはもう子供ばかりで、正直泣きたくなりました。ともかく、上述の通りこれは子供にだけ観せておくには余りにも勿体ない良質な映画ですから、(此処まで読んでおきながらそんな人など流石にいないとは思いますが)まだ御覧になっていない方は是非とも最寄りの映画館へ、「スマップ」や「極楽とんぼ」が何かを遠ざけているのなら、否、それは余りにも不幸な選択です。


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