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カンパニー・マン
監督:ビンチェンゾ・ナタリ
2003年1月25日(新宿オスカー)

 暗闇に沈む既視感



 未来をその舞台とした映画は多いのですが、その舞台が未来である理由は、専ら其処に未知のもの、人類が過去や現在に於いて未だ体験していない何かを其処に違和感なく持ち込むためなのであって、その何かが「モノ」あるいは「道具」の場合、それは即ち「サイエンス・フィクション」となるわけで、未来を舞台とした「映画/物語」が専ら「サイエンス・フィクション」と同義であるかのように思われているのは、その多くが未知の「モノ」に関する「映画/物語」であるからに他なりません。しかし、人類にとって未知の何かというのは決して「モノ」や「道具」ばかりではなくて、例えば、社会状況や政治、思想などもやはりそうで、人類がいまだ嘗て経験していないそれらの或る形態を「映画/物語」に持ち込む場合も、やはりその舞台が未来である必要が生じてきます。仮にマルクスの登場以前に社会主義的な世の中を予見した物語があったとすれば、その舞台はやはり未来だったに違いありません。勿論、何を主題とするにせよ、その舞台が未来である以上、其処に在るべき「モノ」もやはり未来のそれでなくてはならないわけで、そういったことを然して重要視せず、思想なり社会状況の未知性にのみ目を向けると、例えば、ゴダールの『アルファヴィル』やトリュフォーの『華氏451』のような余り「SFぽくない」映画が出来上がるということなのでしょう。また、人類にとって未知の何かというのは必ずしも時間の流れの先にあるとも限らなくて、空間の果てにもやはり未知の領域が、何処とも知れぬ、今在るこの世界とはまるで隔絶された或る空間、仮想都市の類というのもやはり未知なる何かを其処に持ち込むための言わば方便のようなもので、人類にとっての未知なる社会状況、思想が展開するのはむしろそんな未知なる空間の方が多いのかも知れません。但し、空間の果てからの来訪者が人類の驚異となる「映画/物語」はやはり「サイエンス・フィクション」の領域、人類の外側に空想されるのはおよそ科学的な何か、未知の空間を舞台としても、其処に空想されるのが人類の外側ではなく内側にある「何か」の場合、やはり余り「SFぽくない」のは、キューブリックの有名な映画でも観れば分かることでしょう。

 例えば、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』という映画、其処に於ける未来には二種類あって、「サイエンス・フィクション」のそれとそうでないもの、前者は観客の目を大いに愉しませる「未来的」な幾つもの道具や「垂直方向の運動」が示して見せるそれ、後者は(その原理は至って原始的な)犯罪予知の装置とその実現を目指す「犯罪予防局」という一個の行政機関やそれが従属する社会システム等々、この映画の娯楽性はその表層を飾る前者とフィルムノアール的な物語がその中心となっていることに由来し、仮に此処に於いてはどちらかと言えば軽視されている後者のそれ、システムの矛盾や非人間性をより精査する、例えば「サイエンス・フィクション的」な表層を排除してそれのみを示して見せるような方法を取れば、また違った映画になったはず、当然その「娯楽性」は損なわれることになりますが、単なる「娯楽映画」に終わることもまたないでしょう(スピルバーグのそれを単なる「娯楽映画」と評しているのではありません、念のため)。

 さて、この『カンパニー・マン』という映画、物語の進行に伴って次第に色彩を獲得していくという事実など今さら指摘するまでもないことなのですが、この映画は同時に上述の後者から前者、つまりは「非SF的」な未知から「SF的」な未知への移行(この表現自体は多分余り精確ではありません)をもまた実現していると言えます。それは表層、主に都市の風景になど着目すれば分かり易いと思うのですが、平面的で人間の存在を余り予感させないそれから(上記で「SFぽくない」としたキューブリックの幾つかの映画やゴダールの『アルファビル』が物語の前半に実際引用されています)、現在の都市の風景にも繋がる、立体的で其処に蠢く人間の存在をより予感させるそれへの移行が実現されているのです。そもそも、スピルバーグのそれなども実際そうだったのですが、空間を縦に拡げた都市の風景というのは、物理的に考えて当たり前の話、人口が過密した状態を意味しているわけで、この映画の前半にあったような、空撮で捉えられた似たような背の低い平屋が連なる風景(勿論、「郊外」という地理的条件が付加されているにせよ)とは明らかに対照的、また、この映画では矢鱈と広い室内空間に人間が一人ぽつんと置かれているような場面(キューブリックの引用だと思われます)があったのですが、そのような寒々とした風景もやはり「娯楽映画的」な未来像とは少し異なっているように思われます。物語後半に登場する、空間をまさに垂直に移動するあのエレベーターなど「SF的な未知」を観客に大いに愉しませる道具なわけで、高層ビル街を颯爽と浮上する「未来的」なヘリコプター(所謂「飛行機」とは違い、それはより垂直方向の運動を実現する道具です)もやはりそう、空間の移動を地図で示すに止まった(まさに平面、ヒチコックあたりの引用でしょうか)物語前半のそれとは明らかに対照的です。また、人類にとって未知の何かという(この文章の)冒頭の話で言及しなかったもう一つに、人間の内面世界というのがあって、それは例えば、精神病の類を比較的真摯に、決して病理学的「既知」としてのみ認識するのではない映画などがそれを扱ったものと言えると思うのですが、此処にもやはり、最近ではダーレン・アロノフスキーの映画などもそうでしょうか、ドラッグや洗脳によってもたらされた特殊な精神状態が生み出す「異空間」が存在しており、そのおよそ「SF的」でない未知が物語前半により多い、と言うより、そもそもこれはその異空間からの脱出を目指す物語なのであって、その脱出の後に出現するのが「SF的な未知」であるというのが、この映画の表層を一つ特徴づけていると言えるのかも知れません。そして、この映画の一番の「皮肉」は、そうして出現した「SF的な未知」の方に観客がむしろ既視感を覚えてしまうということ、其処が映画館であることを漸く思い出すとでも言うか、あの莫迦らしさには異論も多いような気がしますが、私はむしろ面白いと思いました。

 既に何度も触れているように、これは(実に分かり易い)引用が矢鱈と多い映画なのですが、一つ不満に感じたのは、物語の後半、ジェレミー・ノーザムが周囲に何もない荒野の一本道に降ろされる場面、これは多分『北北西に進路を取れ』からの引用だと思うのですが、なるほど、『北北西に進路を取れ』のそれがケイリー・グラントの頭の上から何かが出現したのに対して、この映画では逆にジェレミー・ノーザムの足元から、そのあたりに引用者の「遊び」があると了解されるものの、しかし、異様なほどの間合いがあったヒチコックのそれとは違って、この場合は殆ど何の間合いもなくて、そのことがヒチコックのそれにあったような「サスペンス」をまるで生まないというのはともかくとしても、引用を了解した観客が空を見上げる余裕すらないというのは些か疑問の残るところです。間合いもさることながら、ジェレミー・ノーザムがわざとらしく空を見上げるくらいの「遊び」があっても良かったのではないかと。

 公開二週目の土曜日の午後、観客席は半分も埋まっていなかったような気がします。前作がそれなりに成功を収めたとは言っても、あれはあくまでも単館上映(とビデオ)でのものですから、今回のように上映規模を拡げてしまうとやはりどうしてもこのような結果になってしまうのかも知れません。ちなみに、この『カンパニー・マン』という表題は単なる「邦題」に過ぎないのですが、原題も本来はこれ(を英語に戻したもの)にするつもりだったらしいのですが、同じ表題の別の映画が先で出来てしまったため、やむなく表題を変更したのだとか。相変わらずのカタカナ邦題にしては案外趣味が良いと思っていたのですが、そんな事情もあったようです。その意味は「産業スパイ」くらいにまで拡大解釈しても良いの、かな?


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