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ロベルト・スッコ
監督:セドリック・カーン
2003年1月26日(イメージフォーラム2)

 映画のための殺人



 これが実在した「理由なき殺人者」に関する映画だからといって、其処にその「理由」を探るために映画館に足を運ぶ人がいるのかどうかなど知らないのですが、仮にそのようなものがあったにせよ、それは一つの「解釈」が生み落とした虚構に過ぎないわけで、あるいは、実話を元にした映画がより観客の興味を惹くというそれは、恐らく統計学的にみても正しい認識なのだと思うのですが、しかし、それが相変わらず虚構に過ぎないというのもまた事実なのであって、つまり、この映画の冒頭に宣言される「この映画は実話である」というそれは、観客にある種の「現実感」を抱かせるための一個の装置に過ぎず、それを無視してしまったところで、決して何が変わるというわけでもないのです。では、この映画には何があるのか、例えば、殺人者の口からその台詞を借りて語られるような明確な「理由」などやはり何処にもなくて、かと言って、では、其処に何もないのかと言えば決してそうではなくて、しかし、その「理由」を予感させるそれは、あくまでもこの映画(物語ではなくて)が不条理に堕してしまうことを回避するためのものなのであって、ロベルト・スッコという実在した殺人者の何かを教えるものでは決してないのです。此処に現われる事象の因果関係は明瞭過ぎるくらいなのですが、しかし、それは観客がおよそ二時間というその時間を映画館の暗闇で過ごさなくてはならない理由を教えてくれているに過ぎないのです。

 これは本当に殺人者の映画なのか、と疑ってしまうのは、物語の中盤まで、其処に死体の転がった殺人現場が映されることはあっても、実際に殺人が行われる場面が省略されてしまっているということにもあって、それはカートなりアンドレを名乗る青年がその犯人であるという当たり前な事実を物語的に隠すという意味では勿論ないはずで、その限りに於いては、否、彼の発砲した拳銃が警官に致命傷を負わせる場面を目撃した後であってさえ、其処にあるのは単なる「自動車強盗犯の映画」なのであって、しかし、そのこと、自動車を強奪するというそれが決してその殺人に関わる物語的な「理由」などでないのは既述の通りです。同じ監督の『倦怠』という映画、其処に於ける「自動車」は専ら主人公に「倦怠」を促す装置として機能し、それに始りそれに終わるその映画は紛れもなく「自動車(とその運動)に関する映画」だったと言えるのですが、この『ロベルト・スッコ』という映画が、その物語の明らか違いとはまるで無関係に、『倦怠』と殆ど同じような印象を与えてしまうのは、それがやはり「自動車(とその運動)に関する映画」であるからに他なりません。但し、此処に於ける自動車という装置の果たすべき機能は『倦怠』のそれとはむしろ正反対、ひたすらに自動車を走らせることだけがその「殺人者」の目的であるかのようなそれは、同時に其処に生きる(生きつつある)映画の持続をも促す「生」の装置とでも呼ぶべきも、そして、その停滞が即ち「死」を意味し、同時に映画の終わりを教えるのがその装置の必然であるのは言うまでもないこと、それは『ゴッドファーザー』のジェームズ・カーンや『俺たちに明日はない』のウォーレン・ベイティがそうであったのと同じことです。尤も、此処に於けるステファノ・カセッティは彼らのように決して「蜂の巣」になったりはしないのですが、自動車(の運動)の停止は其処に息が詰まりそうになるほどの停滞感を、その後の彼の行動はその停滞感に耐え切れなくなってのものであるかのようでさえあります。

 人質の女性にハンドルを握らせてとにかく自動車を走らせるクライマックスの場面が何ともスリリングなのは、その停止が何かの終わりを観客に予感させるからに相違なく、検問を次々と突破していくそれは、まさに「生」の躍動感に溢れています。此処に於ける女性達は何れも冷静で、まるでアクセルを踏み続けることが何かの持続を約束していることを予め了解しているかのよう、彼の行く手を阻もうとし、その運動を妨げようと躍起になる警官どもが次々と撃たれて排除されていくのとは対照的、彼に「生」を約束するその運動を妨げない限り、彼女らの「生」もまた約束されるのです。医学生の女性が「テロリスト」を騙るステファノ・カセッティを自動車から降ろして漸く解放される場面、其処で突如として起こる「エンスト」が信じられないくらいの恐怖感を煽るのは、その運動の停止が直接的に「死」を連想させるから、間一髪その難を逃れたタクシー運転手がそうしたように、彼女は全速力でその場を立ち去らなくてはならないのです。

 此処に於いて最も重要な立場にある女性、イジルド・ル・ベスコ演じる少女が殺人鬼の最も身近にありながら、しかし、決してその被害者とならなかったのは、勿論、彼女が彼の運動を妨げなかったことにあるのは間違いがないのですが、それに加えて、此処に於いて彼女が幾らか特異なのは、その「生」の運動とでも呼ぶべきものがステファノ・カセッティのそれに酷似し、言わば「同調」を果たしていたということ、彼が自動車に乗ってその「生」の躍動を初めて観客に見せつける場面、それが呆れるほど乱暴な運転であるにも関わらず、彼女は驚く様子などまるで見せずにその自動車に向かって(物凄い勢いで)駆け出すのです。ステファノ・カセッティから電話が架かってくる場面にしてもそう、まさに「電話に飛び付く」といった感じでやはり電話機に向かって走ります。一見して大人しそうな、真面目なリセエンヌにしか見えないその容姿とはまるで相容れないその慌ただしい運動がそのまま自動車を走らせるステファノ・カセッティの運動に、停滞することをいまだ知らぬその「若さ」が、彼女の「生」を其処に約束したとも言えるのでしょう。

 とにかく自動車を走らせる、そしてそれを妨げる者は殺す、極端なことを言えば、此処にあるのはただそれだけの何かであるに過ぎません。繰り返しになりますが、自動車を走らせることが殺人の理由でもなければ、其処に与えた監督の解釈でもないはず、仮にあるとすれば「生きるために殺す」というそれですが、しかし、そんな「解釈」など矛盾だらけで、とても大威張りに言えたものでもありません。ただ、間違いなく言えることは、此処に繰り返され目撃される殺人とそれによって持続を約束される運動が、この映画に素晴らしい躍動感をもたらしているということ、映画のために殺人を犯す、奇妙な物言いかも知れませんが、そんな映画はしかし、他に幾らでもあります。

 公開二日目の日曜日の午後、狭い劇場は半分も埋まってないかったのではないでしょうか。「カンヌ映画祭で上映禁止デモ勃発!」なんて大仰に謳われているわりには、その反応は今一つと言った感じ、やはり同じ劇場で公開された(同じ監督の)『倦怠』はそれなりに人を集めていたような気がしたのですが、やはり如何な大仰な謳い文句も「R18」という記号が期待させる「如何わしさ」には到底及ばないということでしょうか。


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