Index

 
ボウリング・フォー・コロンバイン
監督:マイケル・ムーア
2003年2月1日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 その世界の危うさを



 さて、物語映画の「物語」を等閑にしてしまう私は、ドキュメンタリー映画の主題、其処に提起されているのであろう社会に関わる「問題」をすら相変わらず等閑にしようとしているのですが、勿論、それを軽視しているというわけではないのですが、そんなことはしかしそれを観た各人がそれぞれに考えればよいだけの話であって、この映画の場合など特に、それが非常に分かり易いカタチで提示されているのですから、此処に改めてそれを私の拙い言語に置き換えて示すのなど殆ど無意味な、この「前口上」を書き記す以上にも退屈な動作であると思うわけです。尤も、必ずしも何らかの結論が出たわけでもないこの映画のそれを、私が此処に明確に示してみせることができるのならそれも吝かではないのですが、しかし、私にはそんなことなど到底不可能、敢えて何かを言うとすれば「アメリカ人(この場合、保守的な白人に同義)というのは相変わらず阿房だなあ」と、精々そんなことくらいです。ただ、書き始める前に一つ思うのは、私がこれからそうしているような、この映画をその外部から考察した場合の着地点も、此処に提起された問題を直接的に精査した場合のそれも、実はどれほども差がないのではないかということ、それは多分、このドキュメンタリー映画の出来の良さにもまた繋がることなのでしょう。

 ドキュメンタリー映画というのは、其処に或る現実を切り取ってそれに関わる諸問題をそれ自体が思考する、あるいは観る人間に提起、思考を促すためにあるわけで、アメリカの「銃社会」を扱ったこれもやはりそう、太平洋を隔てた日本人の記憶にもまだ新しいコロンバイン高校での生徒による銃乱射事件を中心に、アメリカという国家がその開国以来抱えている「銃社会」に関わる現実の幾つかを其処に示し、監督のマイケル・ムーアがそれを思考する過程を通して、それを目撃した観客もまた何かを思考すると、大凡そんなところなのですが、私が此処で問題にすべきと思うのは、この映画に於けるその「現実を切り取る」という前段階的な作業、そのあり方に関することです。それはこのドキュメンタリー映画に限ったことでもなくて、あるいは「今さら何を」という話でもあるのかも知れませんが、しかし、それはこの映画の主題ともまた密接に関わってくることのようにも思われるわけで、つまり、それが何かと言えば、此処に例示される「現実」の殆どが専らテレビ映像からの「切り抜き」であるというそれです。それ以外の部分、マイケル・ムーアが時として果敢にインタビューを試みるそれは、残念ながら事実の検証ですらなくて、あくまでもそうやって認識された既知としての現実を彼なりに思考する過程に過ぎないわけで、勿論、それが示唆するものを軽視することなどできないのですが、しかし、改めて何らかの「現実」を其処に示してくれているわけでは決してありません。其処に明らかとなることが二つ、世の中の大多数が「社会的現実」と認識していることの殆どがブラウン管を介して得た情報に過ぎないということと、現実を其処に記録するのが専らテレビの役割なら、では、映画とは一体何であるか、ということです。

 さて、第一番目の問題になど個人的に然して興味が持てないので簡単に済ませてしまうと、テレビ(の報道番組の類)が必ずしも其処に現実を映しているわけではないなどというつもりは毛頭ないのですが、肝要なのは、其処に「すべての現実」を映しているわけでは決してないということ、そして、視聴者に対して何を見せて何を見せないか、あるいは見せるものの優先順位を決定しているのはあくまでもブラウン管の向こう側にある人達なのであるということ、仮にすべての報道番組や新聞を隈なく眺めたとしても、当然ながら其処から抜け落ちてしまう社会的現実も多いわけで、仮に各々個人にとって目撃され認識された現実の総体がその個人にとっての「世界」を形成し、新たに体験され認識される現実がそれに基づいて判断されるとするならば、其処から予め零れ落ちてしまっているものの意味は非常に大きいと言わざるを得ないわけで、その極めて重要な選別作業を、果たして信頼に足るのかどうかすら分かり得ない何ものかに委ねてしまっている、そうせざるを得ない各々個人が作り上げた「世界」など実に如何わしい、物語映画と同種の虚構に過ぎないのではないかと、このドキュメンタリー映画に於いてはアメリカという国家の「異常さ」を解く鍵の一つとして「恐怖と消費」の強迫構造が捏造されている(のであろう)ということを挙げているのですが、此処でもやはりそれを捏造し促すのは専らテレビであると、穿った見方をすれば、思考の前段階としての「社会的現実」の殆どをテレビ映像のコラージュによって例示し、それを恰も「現実」と同義であるように扱っているのも、あるいは、単に迂闊を装っているだけの、その一つの結論を誘導するための周到な手段であったと、そんなことも言えるのかも知れません。何れにせよ、テレビというのが、例えば映画などと比べて、世界中で刻々と「更新」され続ける現実をより早く、より身近に届けるのに優れた媒体であることは疑いようのない事実で、しかし、それ故にこそ、それに対してつい寄せてしまうあらぬ信頼感が、ともすれば其処に「すべての現実」があるかのような錯覚をも引き起こしてしまうわけで、各々個人はその「世界」の危うさに対する自覚を常に持ち続けていなくてはならないということです。

 手持ちカメラをグルグル振り回して時にそれを急激に「パン」してみせたり、そんな映画の手法がある種の現実感をもたらすのは、以前なら「シネマヴァリテ」の類が其処に連想されたからなのかも知れませんが、今どきの観客が連想するのは恐らくブラウン管を介して日常的に目にするニュース映像のそれ、その部分だけ画像を粗くしてビデオ映像風にしたり、黒白の俯瞰フィックスで監視カメラ風を装えば、より「尤もらしく」感じるであろうことがその何よりの証左と言えます。そもそも物語映画とは何か、それが虚構に過ぎないからと言って、此処で扱われているような社会的現実に対して全くの不能者であるなど誰も思ってはいないはずです。そういった社会的現実を扱った物語映画というのは、その核心部分をそれに似た虚構の中に収め、それが人間の思考に基づく創作であるという利点を活かしその核心により近づき易いよう言わば誘導するもの、了解が得易い反面、其処には意志の介在が前提となっており、故に、単に社会的現実を切り取るに止まるニュース映像とは違い、時として「賛否」の対象ともなり得るのです。このドキュメンタリー映画の中にはテレビのニュース映像だけではなく、映画の中のワンシーンがやはりコラージュされているのですが、それが専ら何かの「比喩」として引用されているのが象徴的、「現実が映画の比喩である」という高尚な見識は此処では取り敢えず措くとして、つまり、物語映画は現実に対して幾分遠回しな表現媒体であるいうことです。其処に現実(に似た虚構)があり思考(意志)がある、その意味に於いて、このマイケル・ムーアによるドキュメンタリー映画と社会的現実に比較的真摯に向き合った類の物語映画との間には実はどれほどの隔たりもなくて、あるとすれば前者に於けるそれらが明確に分離しているのに対して、後者は表面上それが一つになっているというそれだけの違い、あるいは、此処に展開されるマイケル・ムーアの思考というのがそもそも「物語」であるというか、特に彼が最後にチャールトン・ヘストンに会いに行くのなど「物語」以外の何ものでも、要は「方法論」の問題に過ぎないのです。では、差し当たり一つに纏めてしまったその映画とテレビは一体何処が違うのか。あるいはそれは単純な引算の問題に過ぎないとも言えます。明らかな意志をチラつかせるというある種の「無邪気さ」が映画を比較的安全なものにしていると、それが安全でなくなるのは其処に「現実と虚構を混同する」と言った類の特殊な精神状態が紛れ込んだ場合のみ、実に分かり易い話です。が、しかし、そのような理解が些か短絡的且つ消極的であるのは言うまでもないことです。

 最近あった(らしい)事件、アメリカのあるテレビ局が何かのアニメ番組にガンジーを登場させたところ、その扱いを巡ってインド国内で大規模な抗議デモが起きたそうなのですが、槍玉に挙げられたそのテレビ関係者が弁明して曰く「これはあくまもでアメリカ国内向けに制作されたものである」と、蓮實重彦がある対談で「テレビという媒体は国境を越えない」という趣旨の発言をしていたのですが、つまり、今どきはそれが物理的に国境を越えてしまうことなど実際容易であっても、しかし、例えば、何らかの事件を報道するキャスターが発する言葉というのは、あくまでもアメリカ国民に対してのみ向けられているということ、それは勿論アメリカに限った話ではなくて、明確な言葉の壁が存在してしまう日本国内のそれなどもっと分かり易いと言えるでしょう。アメリカ国内向けのニュース映像を一つの「現実」としてコラージュ、再構築した「映画」が実際私の目に触れていることを引合いに出すまでもなく、そんなところにもやはりテレビと映画の媒体としての性質の違いを発見することができます。世の中がキナ臭くなってくると、必ず国威発揚を促すかのような、ハリウッド式に工業生産された類の映画がスクリーンを賑わすことになるのですが、少なくともアメリカ国外では、そんなのは大抵が「莫迦映画」の烙印を押されてしまうわけで、それはボーダレスを理想とする媒体にとって当然のこと、問題はそんなものが通用してしまうと錯覚する制作者の頭の中身にしかありません。ともあれ、肝要なのは、テレビという媒体が切り取ってみせる社会的現実や、その「選択」にあってもしかすると其処に働いているのかも知れない作為的な何かが、それが何であれ、あくまでも或る特定の閉ざされた地域、集団のみを対象としている、そもそもがそういうものであるということです。

 映画として再構築されることによって、その特定の地域、集団の外部に跳び出した社会的現実を、例えば、日本人の私が目撃すれば、自明のこととは言え、上の方で書いたような感想を改めて漏らすことになるのですが、では、この場合、当事者であるアメリカ人にとってはどうなのか、それが映画であれ、内部循環の構造はテレビの場合と同じ、相変わらず阿房のままで拳銃を振り回し続けるのか、あるいは(とても素直に受け入れるとは思えませんが)外部からの親切な指摘を待つのか。思うに、彼らに何らか救いがあるとすれば、映画という媒体がその思考を常に外部に置いているということに、社会的現実とそれを巡る思考が予め分解されたドキュメンタリー映画に限らず、単なる物語映画であってもある種の煩わしさを回避する意味でそれを内部に巧妙に織り込んでみせはするものの、しかし、それを巡る思考の起点はあくまでもその外部に、そもそも現実が思考の内在を許すなどあり得ないからです。つまり、其処にはもはやテレビという媒体と同化してしまったに等しい社会、社会的現実、あるいは「世界」を、改めてその外部から検証すべくの意志が確実にあり得るわけで、要はその側に立って現実なり世界なりと対峙しその思考を巡らすしかないということ、勿論、そのような動作は各々個人の意志に関わる問題であり、またその次第でしかどうにもならないことでもあるわけで、従って、映画にできることと言えば、既に何度も繰り返した通り、それを巡る幾つかの(外部的)思考、意志を示唆することと、そして、日常を異化する特権的な空間、即ち映画館の暗闇をその思考を促す場所として提供すること、マイケル・ムーアのこの真摯なドキュメンタリー映画が此処に成し得ているのも結局はそれだけのことに過ぎないのですが、しかし、それで十分なのではないでしょうか。

 公開から何週か経った土曜日のレイトショー上映、ドキュメンタリー映画としては異常とも言える混雑ぶりです。私も別にレイトショー上映が観たかったわけではなくて、普通に昼間の回を観るつもりで映画館へ足を運んだところ、私が映画館に着いた時間より後に始まる二度の上映回が何れも既に満席完売となっていた故に、致し方なくレイトショー上映のチケットを購入したという、それでも整理番号は既に百番を超えていたり、この映画が本国でどのような扱いを受けているのかは知らないのですが、アメリカ人どもにせめて単館上映の劇場を混雑させるくらいの聡明さがあれば、少しずつでもその状況が変わってくるのではないでしょうか。


Index