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レッド・ドラゴン
監督:ブレット・ラトナー
2003年2月1日(新宿グランドオデヲン座)

 抛たれた欲望の起源



 この映画を当たり前のように同じ「ハンニバル・レクターもの」の前作や前々作と比較して何らか考を巡らせることには些か疑問が残るのですが、実際、ハンニバル・レクターはそれを随分と気に入っているらしい同じ俳優が演じ続けていますし、前作や前々作がなければこのトマス・ハリスによる原作小説の二度目の映画化などあり得なかったことをすれば、それらを一つの繋がりの中に認識し、それらとの比較を一つの手段として論じることもまたあり得るのかと、また、嘗て『ラッシュ・アワー』を撮ったいまだ若く野心的なこの監督自身がその「繋がり」を誰よりも意識しているはずで、其処に顕れる、物語的にはどれほども差のないそれらに対するアプローチの違いは、むしろそれをこそ論ずべきと表明しているかのよう、実際、タイトルクレジットが出現する以前の幾つかのシークエンスで、既にその「宣言」が為されてもいるのです。

 以前、リドリー・スコットの『ハンニバル』に関する文章でも書いたのですが、その映画やあるいはジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』では、其処に於ける身体の「接触」が物語的、映画的に重要な意味を持っており、それがある種の二元論に換喩されてもいたのですが、この映画では、その表層の連鎖が、おそらくは監督自身の明確な意志として、むしろ断ち切られているようにも思われます。それはアンソニー・ホプキンスと関わる相手がジョディー・フォスターやジュリアン・ムーアのような女性から、エドワート・ノートンという男性に代わり、其処に「恋愛」のモチーフを持ち込み難くなったことに大いに関係があるはず、それはタイトルクレジット以前のシークエンスでそれら両者が既に派手な取っ組み合い(露骨な接触行為)を演じてしまうことからも容易に予想されることで、案の定、アンソニー・ホプキンスがその身体を収める監房は、単なる鉄格子ではなく、其処にガラス板と思しきが挟まれたより厳重なもの、故に、彼がジョディー・フォスターに対してしたような、格子の隙間から指を伸ばして接触を試みるような動作は、此処に於いては、その予感すら起こり得ないのです。同じことは、この映画に「恋愛」を持ち込むエミリー・ワトソンとレイフ・ファインズの関係にもまた言え、それはエミリー・ワトソンが愛おしそうにクーガーを撫でてみせる比喩や、あるいはそんな比喩など余計だと思ってしまうくらい容易に結び付いてしまう、男女の関係に於ける身体的接触の最たるものが其処に実現されてしまうことに明らかです。例えば、『羊たちの沈黙』のクライマックスの場面、暗闇を支配し明らかに優位な立場にあったシリアルキラー(悪)は、慣れない拳銃を振り回すジョディー・フォスター(善)に、しかし、指一本触れることなく射殺されてしまうという、そんな身体の接触を巡る二元論がこの映画ではまるで機能していない、むしろ予め抛棄されているのです。

 では、此処には一体何があるのか。映画冒頭の、アンソニー・ホプキンスがオーケストラの演奏に耳を傾けるコンサートホールのシークエンス、上手く演奏できず全体の調和を明らかに乱しているフルート奏者に彼が投げ掛け、そして、そのことがそのフルート奏者の運命を決定づけてしまったそれ、此処に於ける二元論はつまりその「視線」によってもたらされているのです。接触を遮り視線を残す、なるほど、そう考えれば、あの「ガラス板」の存在にも容易に理解が及びます。視線を巡る状況は他にも色々とあって、例えば、囚われの身となったフィリップ・シーモア・ホフマンが、レイフ・ファインズに促されてもなかなか目を開けない場面、彼に対して視線を送ることが即ち「死」を意味するというそれは、物語的に言えば、犯人の顔を見てしまうと決して生きては帰れないことを彼が十分に諒解していたからと、それだけのことに過ぎないのですが、しかし、その状況は同時にレイフ・ファインズがその変身を切望した「神」の暗喩となり、また、その暗喩が容易に連想させるある種の二元論を此処に成り立たせるための一個の装置ともなるのです。そして、言うまでもなく、それは予め視線を持たない存在、盲目のエミリー・ワトソンと対置されるもので、彼女が終始安全な立場にあって、その「神」との接触すらあり得てしまうのは、物語的にはやはり当たり前のことなのですが、彼女が視線を持たず、その存在を視ることができない故、それはレイフ・ファインズが容姿に関わるトラウマを抱えているという物語的な事実とも符合します。問題は彼ら、肉体が交わることはあってもその視線が交差することは決してあり得ない、それ故に一個の明確な対立の構図を描いてもみせるその両者によって換喩された二元論にあります。この場合の「善」は勿論エミリー・ワトソンで「悪」はレイフ・ファインズ、両者を分ける表層的な事実は一体何か、それが何を考えるまでもなく、そのまま「視線の有無」にあるという恐ろしく極端な、そんなことを言ったら世の中の大半が「悪」の側に属してしまうであろうというそれが、しかし、決して誤った理解でもなさそうなのは、この映画のクライマックスの場面を想起してみれば案外容易に知れるような気がします。エドワード・ノートンとレイフ・ファインズが互いに向き合って為される銃撃戦、それだけなら何の変哲もないのですが、この場面の異常さはそれら両者の間に「扉」を置くことによって、両者共の視線を完全に消滅させてしまっていることに、レイフ・ファインズはその邪悪が殺がれ、その色分けに於いて本来「悪」の側に属しているはずのエドワード・ノートンは視線を失ったその瞬間のみ「善」の代行者として正義を行使する、勝負は始めから分かっていたようなものです。視線、視ることが即ち「悪」であるという此処に於けるそれは、例えば、男性が女性に対してするそれを想像すれば分かり易いのだと思うのですが、視線(視ること)は即ち欲望の始まりであり、欲望は邪悪の始まりであると、おそらくはそんなところなのでしょう(図らずも「悪の根源」というこの映画の宣伝文句と繋がってしまいました)。あるいは、私は余り詳しくないので何も書けないのですが、聖書でも引けばそれを示唆するような記述に出会すのかも知れません。その意味に於いて、その両眼をしっかりと見開いてレイフ・ファインズに止めを刺すメアリー=ルイーズ・グレアムの姿に背筋を寒くするのは、決して異常な反応でもないということです。

 表層的な事件がそのまま分かり易い暗喩になっているということも含めて、特に、タイトルクレジットの背景として現れる「言語情報」を挟んだ前後の(物語の)流れであるとか、一番最後の、それだけは止めて欲しいと懇願したくなるあの状況や台詞とか、物語の構成に関わる多くのことが何となく「俗」な感じがして少し気になりました。暗喩のそれなどやはり(前作、前々作を意識する余り)幾分気負い過ぎている所為もあるのかも知れませんね。ともあれ、ジョナサン・デミのそれには到底及ばないにしても、リドリー・スコットのそれと同じくらいの場所に置いてしまっても別に構わないのではないかと、このブレット・ラトナーという若い監督、年齢も私と同じくらいですし、今後の活躍を期待したいところです。

 先行オールナイト上映の午前1時からの回、『ハンニバル』のときもやはり先行オールナイト上映を観たのですが、そのときほどの混雑はありませんでしたが、それでも半分以上は優に埋まっていたわけで、時間帯を考えれば上々ではないでしょうか。まあ、こういう映画は私が何を書くまでもなくどうせ流行るのでしょうから、別にどうでも良いと言えばそうなのですが。FBIを一時引退したエドワート・ノートン扮する捜査官が、家族で「船弄り」をしている場面があったのですが、『ブラッド・ワーク』のやはりFBIを退いたクリント・イーストウッドも同じように「船弄り」を、アメリカ人にとって「船(の所有)」というのは、「リタイア」という状況とある程度以上の「ステイタス」を意味するシンボルといったところでなのでしょうか。日本人で言えば…。


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