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ウェルカム!ヘヴン
監督:アグスティン・ディアス・ヤネス
2003年2月9日(シネセゾン渋谷)

 地獄に堕ちて



 「『木を見て森を見ず』とはマサにキミのためにあるような言葉ダ」と、そんなふうに揶揄嘲弄されることも少なくない私なのですが、しかし正しくは、私にはむしろ、世の大半にとってそうであろうように「森」の印象が先ずあって、私による何らかの文章というのは、言うなれば、その印象の理由を「木」に探る過程、結果であると、この場を借りて弁明させてもらえば、そう言葉を返すことになります。従ってそれは「木を見れば森が分かる」などという不遜な態度でもなくて、単純な話、「面白い」と感じた映画の細部を探れば、当たり前のようにその明確な理由が其処に見つかると、そういうことなのです。それは「面白くない」と感じた場合でもやはり同様、勿論、およそ娯楽の対象であろう「映画」というその体験に於いて、何よりも肝要なのはその印象であり、唯一それを以て何らかの断を下してしまうことに異論などないのですが、しかし、印象を印象のまま抛置しておいては、一人の人間が世界中のあらゆるすべての映画を体験し尽くすことが不可能である必然として余儀なくされる「選択」の場面に於いて、明らかな不利を被ってしまうと、そんなこともまた思うわけです。と、以下さらに続く長く退屈な説明の弁はこの際割愛するとして、ともあれ、斯くて私の老婆心は本日もまた此処に持続されるのです。

 さて、困ったことに、此処に面白い細部を持ちながらも、全体の印象としてまるで面白くない映画があります。差し当たりその「面白い細部」を幾つか列挙してみれば、例えばこの映画の冒頭のシークエンス、如何にも「タランティーノ以降」といった感じのそれは些か食傷気味とは言え、それでもこれから始まる何かを観客に期待させるには十分なもので、実際、私も大いに期待しました。天国と地獄と地上の言語をそれぞれフランス語、英語、スペイン語に分けるという発想も、言語というものを単に意思伝達の媒体として捉えていない、その語感がもたらす印象を重要視しているという意味に於いて注目に値するもの、また、物語の中盤のビクトリア・アブリルが天国のクラブで歌い踊る場面、この場面は歌の最初から最後までがワンショットに収められているのですが、それは旧いミュージカル映画の作法に倣ったもので、仮にそんな「知識」など持ち合わせていなくても、それ自体また非常によく出来たシークエンスとして観客を愉しませてくれるものです。ペネロペ・クルスが自室で一人踊る場面が俯瞰気味のショットで捉えられているのなどもやはりそう、あるいは『マトリックス』など連想してしまう電話による遣り取り、サリジャーやスコセッシの引用(ボクサーという職業もまたスコセッシに繋がるのでしょう)等々、別に映画ヲタク向けのそれら引用が面白いということではなくて、それら自体としても十分な何か、例えば「ユーモア」であるとか、を果たし、観客を大いに愉しませてくれるものではあるのです。

 ブロンドとブルネットという石を投げれば当たりそうな二項対立が一人の男性を巡ってその利害を争う、誰しもがありがちな「三角関係」を予感する其処に、しかし、それはその気配すらも現れません。ブロンドとブルネットの間に立つ知性的でもなければ野性的でもない、ただ単に「頭が弱い」というそれだけが個性なのかも知れないデミアン・ビチルにその映画的三角関係を御するだけの才が足りないというのは確かに言い得る話なのですが、しかし、それ故の物語設定なのであり(つまり、デミアン・ビチルが魅力的だから其処に女二人が現れたのでは決してないという予めの設定)、また、その二人が(男性ではなく)女性である理由も本来其処にあるはずなのです。そもそもデミアン・ビチルがペネロペ・クルスに対して何の興味も示さないというのはどうしたことか、なるほど、物語は途中からそれがむしろビクトリア・アブリルを巡る変則的な三角関係であるかのような予感をも孕むのですが、しかし、それもやはりペネロペ・クロスがその素性を明かしてしまうことによって予感のまま消滅してしまいます。デミアン・ビチルとビクトリア・アブリルの相互の関係、ペネロペ・クロスとデミアン・ビチルあるいはビクトリア・アブリルとのやはり相互の関係、それら往来する6つの感情に改めて思いを巡らせてみると、恐ろしいことに、此処には三角関係どころか「恋愛」の感情すら存在していないということが分かってしまいます。そして、この物語に於いて何よりも不可解なのは、デミアン・ビチルを地獄へ落とすべく遣わされたはずのペネロペ・クルスが、その目的を果たすための最も容易な手段を予め抛棄してしまっているということで、それはつまり彼に姦淫を促すというそれ、三角関係が成立しないのも道理というか、その不可解な挙動が本来其処にあるべきを壊してしまっているのです。仮に私が期待するような、在り来たりな三角関係など成立しないのがこの映画の本来なのだとしても、しかし、端からそれが存在しないのと(その期待が)物語の進行に連れて裏切られていくのとではまるで意味が違うわけで、むしろその予感すらないことが、この物語に成立するのであろうブロンドとブルネットの利害を越えた「友情」をすら空々しいものにしてしまっているのです。肝要なのは、ブロンドとブルネット、天国と地獄というあからさまな二項対立を一時的であれ「三角関係」もしくは「恋愛感情」という通俗な比喩の中に抛り込むことであり、むしろその比喩によって本来の対立を明らかにするなり崩壊させるというのが「物語」のあるべき姿なのではないかと、「男一人と女二人」を其処に置きながらも、期待される「通俗さ」を敢えて回避してしまうなど、とても正気の沙汰とは思えません。この映画がまるで面白くない理由は其処に、結局、此処にあるのは「ペネロペ・クルス」という細部であり「ビクトリア・アブリル」という細部に過ぎなくて、もし仮にその「通俗な三角関係」という肝心の「映画的記憶」が、デミアン・ビチルを天国に導くという物語的結論によって否定されてしまうのならば、私は天国へなど行きたくない、地獄に落ちた方が余程マシであると、そう言わざるを得なくなってしまいます。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、ペネロペ・クルスの人気でしょうか、ほぼ満席でしたね。ところで、パンフレットなどではこの映画の単なる邦題に過ぎないそれが当たり前のように英語表記されていて、それが恰も原題であるかのような印象すら受けてしまうのですが、勿論、スペイン語による原題はまるで違うもので、英語圏での表題もそのスペイン語の原題を英語に直訳したものです。問題なのは、この映画のパンフレットの何処にもその原題の記載がなされていないということ、そして、さらにお粗末なのは、そのパンフレットには原題の記載どころか上映時間(フィルムの長さ)やスクリーンサイズの記載すらないこと、何を載せるにせよ、その映画にとって必要最低限の情報は忘れずに記載しておいてもらいたいものです。
 余談ですが、私にとってペネロペ・クルスの英語というのは実に耳障りなのですが、この映画では殆どの台詞がスペイン語でしたから余計なところで気を散らせてしまうことはありませんでした。


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