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戦場のピアニスト
監督:ロマン・ポランスキー
2003年2月15日(新宿プラザ劇場)

 対象の記号化、戦争



 50万人いたユダヤ人が今は6万人しかいない。

 物語中盤にそんな台詞がありました。あくまでも「物語中盤」での話ですから、その長い戦争が漸く終りを迎える物語の終りにはその数はさらに減っているはず、一説によると戦後解放されたワルシャワで生き延びていたユダヤ人は20人だけだったともされているようです。尤も、それを「史実」として語る場合、そういった類の「数字」はいまだに論議の対象となり得るもので、何処までが確かなものなのかなど私にはまるで分からないのですが、あくまでもこの映画に目撃された事実に限って言えば、その「数字」が示すの通りのことが起こり、実際この映画では何よりもその数字に表れる「異常さ」をスクリーンに捉えようと試みられているのです。此処に於いてはドイツ兵の悪逆無道ぶりがとにかく執拗に反復されるのですが、その異常なまでの反復が即ちその数字の異常さに、執拗な反復によって意識させられる「日常性」こそが、50万人が6万人あるいは20人になったという些か異常な(物語的)事実に現実感を伴わせることになるのです(その結論が廃虚に独り佇むエイドリアン・ブロディを捉えたあのショットであるのは言うまでもないことです)。車椅子の老人を階上の窓から抛り投げる、あるいは質問を返す女性の額を容赦なく撃ち抜く、其処には何の「躊躇い」すら存在していないのですが、しかし、其処に一度でも「躊躇い」を示してしまうと、それは同時に「44万回の躊躇い」を意味することにもなってしまい、その数字が途端に胡散臭くなってしまうのです。そんな「躊躇い」などあってはその異常な数字を「こなす」ことなど実際できなかったはず、ただ、其処に顕れる「非人間性」をドイツ兵という一個の固有名詞の中に発見するというそれは、なるほど「憎悪」という一つの物語解釈の手助けにはなっても、しかし、それ以上の何かをもたらしてくるものではありません。物語の終盤、ドイツ将校のコートを身に纏ったエイドリアン・ブロディが危うく解放軍に射殺されそうになる(「映画」に於いて既に幾度となく反復されてきた)場面があるのですが、つまり「戦争」など所詮はそんなもの、「ダビデの星」を着けていればユダヤ人で、ドイツ軍のコートを着けていればドイツ兵、180度違うその立場を決定しているのは、人間そのものなどではなく、あくまでも身に着けたそれら「記号」に過ぎないのです。その悪逆無道ぶりをスクリーンに展開させるドイツ兵に何の躊躇いもないのは、その対象が単なる記号、差し当たり排除すべきとされている一個のシルシに過ぎないからで、あるいはユダヤ人にわざわざ「ダビデの星」という目に見えるシルシを付けさせたのも、そのことによって対象の記号化を促し、排除を実行する人間の「躊躇い」をより少なくするという心理的な効果が企図されていたのかも知れません。勿論、単なる記号に堕してしまっているのは排除する側も同じ、「戦争」が何よりも悲劇的なのは、あらゆる人間存在それ自体が単なる記号に堕してしまうからに他ならず、本来あり得ないはずの蛮行があり得てしまうのもそれ故、殺す側も殺される側も、もはや非人間的な存在であることを免れ得ないのです。

 ピアノ=音楽を失ったエイドリアン・ブロディもやはり一個の記号としてひたすらに逃亡生活を続けることに、否、むしろ記号に堕してしまったからこそ逃げるより他に道がなくなってしまったと言うべきなのかも知れません。ともあれ、此処にあるのはその一個の記号によって目撃された物語であり、実在の人物でありながらも(単なる記号に過ぎないのですから当然と言えば当然なのですが)しかし専ら窓越しに提供されるそれはあくまでも匿名の視線、この映画に於ける重要なスタンスの一つと言えるのかも知れません。例えば、家族と離れ離れになる場面など案外あっさりしているのですが、それはこの物語が単なる一家族の悲劇に矮小化され理解されてしまうことを回避するため、逃亡生活を続けるエイドリアン・ブロディが当たり前のように生き別れた家族に思いを馳せないのも、彼がもっと大きく括られた枠の中に等質に配置された記号であることを自覚しているからに他なりません。勿論、一家族の悲劇を介して、其処にユダヤ人全体、あるいは「戦争」の悲劇を示して見せることなど然して難しいことでもなくて、実際、そんなふうな物語の方が圧倒的に多いのだと思うのですが、此処に於いてはしかし、既述の「執拗な反復」が数字を積み重ねていくそれがそうであるように、一から十を想像させるのではなく、限りなく十に近い、観る者が「過剰」とさえ感じてしまうくらいの何かをスクリーンに示して見せることによってその異常さをそのまま認識させる、そんな試みが為されているようにも思われます。彼がまさに記号と化す、つまりはピアノを失う場面にしてもそう、単なる一個人の物語に過ぎなかったベルナルド・ベルトリッチの『シャンドライの恋』にあったような「吊るされたピアノ」など此処にはなくて、あらゆるすべてが必然として記号に堕してしまうその流れに彼は何一つ逆らうことはない(できない)のです。彼がその匿名性を裏切ることがあるとすれば、それは彼が、生きていること自体が単なる偶然に過ぎないその状況を見事に生き延びてしまったということに、何故なら「映画=物語」に偶然などあり得ないからです。

 ドイツ兵に見つからないよう泣き止まない赤ん坊の口を手で塞いで窒息死させてしまう母親のエピソードが印象的です。まさに記号に堕してしまった人間の悲劇とでも言うべきか、それはこの映画に反復される「音と記号」のモチーフの一つでもあると言えるのですが、ただ、彼女が記号に堕すことなく、泣き止まない赤ん坊をそのまま抛置しておいたところで状況が変わったとはとても思えないわけで、その意味に於いて、音=音楽を得ることによって一時的であれ記号であることを止めたエイドリアン・ブロディの身に起こったことは、しかし、やはり(残念なことに)単なる例外に過ぎなかったと言わざるを得ないのかも知れません。一心不乱にピアノに向かう彼はもはや一個の記号などではなく、彼が自称した通りの一人のピアニスト、その演奏に耳を傾けたトーマス・クレッチマンも当たり前のように彼に名前を訊ね、「ピアニストらしい名前だ」とさえ、それが記号と記号の対峙でない以上、蛮行の起こり得る余地など何処にもないはずなのですが、それでも、それはやはり「神の意志」に導かれた一個の偶然でしかなかったのです。

 反復されるドイツ兵の悪逆無道ぶりや「音」を巡る「過剰」は然して気にならなかったのですが、ただ一つ気になってしまったのは「光」を巡るそれ、ゲットーの内部に於いては常に薄曇りのどんよりとした空だったのが、例えば、エイドリアン・ブロディが初めてゲットーの外に出る場面など眩しい木洩れ日が街を照らしていたりするわけで、彼がエミリア・フォックスの家で目覚める場面にしてもそう、「無伴奏チェロ組曲」の「音」はともかくとしても、カーテンを照らす眩しい太陽の光は、勿論、それがゲットー内部の暗い現実をより強調することになるという理屈は容易に理解できるのですが、それだけはしかし、何となく「やり過ぎ」な印象を持ってしまいました。

 公開初日の土曜日の午後、千人の劇場がほぼ満席でした。何にせよ上映開始の30分以上も前から行列の一部分として行儀良くしているのなど苦手な私は800円を余計に払って指定席に座ったのですが、通常の混雑時なら不自然な「空洞」を形成してしまう其処ですらやはり殆どの席が埋まっているという、こんなことを言っては誰かに対して失礼にあたるのかも知れませんが、しかし、私には随分と「意外」な光景に映りました。まあ、目が覚めて自宅を出るまでに最低5回は目に(耳に)してしまったあのテレビCMの効果もあるのでしょうが、中東方面に於ける「記号化」の影響もやはり少なからずあるのではないかと、『ボウリング・フォー・コロンバイン』の異常な混雑にも同じことを思ったのですが、日本人は真面目だなあ、と、熟も。


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